このくらいのことは誰でも?
2019-07-20
誤魔化すという行為に直面し世渡りの要領だと押し通す輩
妥協なき金字塔に一点の曇りはあらず
高校時代というものは、様々な社会意識に目覚める頃であると思う。僕の経験からしても教室の中で誤魔化して評価を高くしようとする人間などに、やたらと否定的な感情を持ったことを記憶する。いわゆる先生におもねるタイプの輩、実際の実力はさて知らず「・・・は英語ができる」と先生に思い込ませれば、その通念の中で生き抜こうとする連中である。中にはこうした輩を肯定する目の曇った教員がいて「世渡りが上手い」とでもいうのか、やたらと学級の中でリーダー的存在として扱うということがあった。僕などはあらゆることを正攻法で対応し、先生にも高い理想ある生き方を言ってしまうので、堅物と見なされて「頭が硬い」と見なされていたようである。その評言を撤回することに意味を感じなかったので、僕は大学受験の結果という現実を突きつけて自らの生き方を示したように思う。
今にして思えば、イチローさんが「いつも周囲に笑われて生きてきた」と述懐するように、「変わっている」と周囲に思われても自らの信念を貫く姿勢が人生には必要ではないかと思う。誰よりも練習し、誰よりも身体の管理に気を遣い、誰も思いもしない高い理想を掲げて生きる。妥協なき信念が行動になったことで打ち立てられた金字塔を、誰が否定できようか。たぶん前述したような「要領で生きる」タイプの人間は、イチローさんのような生き方を毛嫌いしているのかもしれない。中学校まで野球をやっていた僕は、高校で初心者として器械体操を始めた。高度な次元には達しなかったが、6種目の基礎においてはどれも誤魔化しの効かない境目を体験した。中高教員になりたくて新卒で現場に出たが、10年ほどやるうちに「要領でこなす授業」に嫌気がさした。自らを誤魔化さない公正な評価をしてくれるであろう研究へと向かうために、現職のまま大学院の門を叩いた。あの高校時代に先生の評価が高かった輩の現在を知る由もないが、果たして「要領」だけで幸せな人生を送ることができているのだろうか。他者を誤魔化すなら、それ以上に自らを誤魔化し偽るのではないかと、僕は思う。
社会に立ち込める深く暗い闇
度を越した「要領」を「正当」に見せている
少なくとも僕は誤魔化しのない生き方を貫きたいと思う。
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