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先生の言うことの聞き方

2019-07-19
「正解を持っている」待てば楽
「唯一無二の見本」従っていれば咎められない
だがしかし、「先生も間違う」から学びは始まるのでは・・・

「国語」の授業では、教材(作品)に何か核心的に言いたいことがある、という誤った考え方が植えつけられてしまうことが多いように思う。映画館で上映が終わった後に、帰る人波の中で聞く他者の会話の中に、「ねえねえ、それでこの映画は何が言いたかったの?」などとカップルが仲睦まじく話す光景は日常茶飯事のことだ。「大衆」は映画という「作品」に「一つの主題」があると思い込んでいて、それが「あなたたちそれぞれの思考の中で創作される」ものであるとは思っていない。大概はWeb上の映画評などを読んで、他人の解釈に「正解らしき」ものでも発見して納得し、趣味は「映画鑑賞」だと履歴書には書く。だが、果たしてこうした人々が「鑑賞」という行為を行い得ているのだろうか?と疑問に思う。

教科は「国語」に限らないが、「答え」は先生が持っていて、それを「当て」て疑わずに「従う」ことが成績評価の高い「優秀な子ども」であると〈教室〉ではされる。その「答え」に違和感を覚え、自らの思考をフル回転して別な角度からものを見ると、テストや評価は下がってしまう。この〈教室〉での学習習慣が、入試を始めとする人生の関門でも同様な思考が求められるゆえ、その定着度は高くなり、日常生活の思考にまで反映してしまうように思われる。その証拠にバラエティ番組では、「正解は!」と絶叫する場面が繰り返され、「先生」らしき物知り顔な輩が登場し「(君たちは知らないだろうが)私は知っている」ような態度で知識を開陳すると、会場では「エッ〜!!!」などと驚きの発見かのような声が垂れ流される。その安易で軽薄な「納得」が偏った矮小なものの見方であるとは思わない構造が造り出される。この創造や独創とはかけ離れた思考が、この国の社会に蔓延している。

映画にも人生にも「終わりなき追究の問い」がある
同調するよりも疑問を持つ学び手が〈教室〉では評価されなければなるまい
異論なき一つの虚飾な「正解」ほど、脆弱な砂上の楼閣であることは歴史が明らかにしている。


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