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笑われても諦めない

2019-07-18
「同調圧力」が学びを頽廃させる
考えられる人たちを諦めさせる空気感
〈教室〉の音読もリーディーングも・・・

小学校低学年の〈教室〉を参観すると、純粋に眼の前の学びに向き合う子どもたちの視線に出会うことができる。他者の目線を気にすることもなく、いわゆる社会的体裁や同調圧力の空気など意識しない無垢な眼が逞しいとさえ思う。だが中学年や高学年、ましてや中学校・高等学校と上がるにつれて、「同調圧力」に支配された偏向した〈教室〉となってしまうことが多い。思考としてもある一つの「正解」が核心的に用意されていると考えてしまい、多様で異質な意見を持つという本来は学びの基本的な方向性とは逆行した空気感が蔓延してしまうのだ。この「答えは唯一無二の正解のみ」という偏った学びの環境が、日本社会で起こる多くの事象に表面化しているようにも思う。大学1年生の講義などでは、まずはこの「正解主義」の頭から解放することを根気強く実行する必要がある。

国語授業における「音読」の問題を長年に渡って考えて来たが、前述したような問題の影響を受けやすい学習活動である。文学教材の場面や登場人物の心情などを含めた精緻な解釈に根ざした音声表現をしようとすると、その深い学びに依拠した「音読」の方が「出る杭」のような存在になってしまう。何事も考えずこれ以上ないほどに気怠さ・やる気のなさを前面に漂わせた頽廃的な「音読」に終始すれば、みんなが考えなくてもよいので「楽」できるという「同調圧力」を造ってしまうのだ。その空気に支配されるとやがて、少しは解釈を反映した「音読」をすべきと思っている学習者も突出して自らの考え方を表明することを諦めてしまう。本来は批評的に高度なテキスト解釈に至るはずの学習が、まったく”のっぺらぼう”な思考なき盲信に至ってしまう。どうやらこれは外国語学習のリーディングなどでも同じ傾向があり、帰国子女など母国語並みの発音ができる学習者が敢えて日本語訛りを虚飾して外国語を読み上げる。批判なく空気感に従っていれば、その場は凌げる。どうやらプレゼンや外国語学習を苦手とする日本人の傾向は、こんな相互頽廃的な空気感によって醸成されているのかもしれない。

個々の意見を持つことの大切さ
人生や恋愛も「正解」を求めて生きていけるのか?
批評的な高度で緻密な思考を排除する社会は怖ろしい未来を造る。


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