夕陽を追いかける人
2019-07-08
雲海の上に位置が変わらぬ夕陽西へ向かって沈む夕陽を留めおく
牽牛の心よろしく七夕の宮崎へ帰る
ひととせにひとたび逢えると云う牽牛と織姫は、逢えない時間をどう過ごしていたのだろう?七夕の願い事を考えるに、願いが叶うためにはむしろ叶うまでの「待つ」時間こそが大切なのではないかと思う。昨日の小欄に書いた「答え」を求め「○」か「✖️」かで問う思考は、「逢えるとき」のみに重点を置き、「待つ」時間がないかのような誤解を招きかねない。「逢えるか逢えないか」は願望の結論として極点でありながらも、その葛藤にもがき苦しみ心が彷徨う状況への対応において、人としての価値も見出せるように思う。哲学者・鷲田清一が指摘するように、現代は「待つ」ことのできない社会になってしまったのだ。「熟慮」「熟考」するとは、結論のみを急がず対話する過程から有用なことを見出していくこと。外見の見栄えがいいだけの品々のみが並ぶ店頭に、果物が「熟す」ごとき「待つ」思考は皆無と言わざるを得ない。短絡的で安易な思考を便利だと思い込ませる悪意ある喧伝が、世に蔓延っているので要注意だ。
七夕伝説であれば「七月七日」の織姫・牽牛が逢えるその日に焦点が当てられつつ、笹の葉に願い事を書くのは「待つ」思考を具体化した所業であろう。雨の東京・羽田空港で航空機に乗り込み、高度を上げて雨雲を通り抜け、いつもなら見える東京港湾や横浜・湘南の海岸線も見ることはできなかった。だが上空では富士山や日本アルプスの山並みに負けるとも劣らない、雲海の複雑な起伏を見ることができた。その西に夕陽が見えて、雲の海に光の道をつけている。航空機は一定の速度でその高度を水平飛行し、紀伊半島や四国の沿岸をかすめつつ一路西の宮崎へと向かう。東京より黄昏時の遅いことを実感していたが、地球という球体の表面を舐めるように飛ぶ航空機で夕陽を追いかけると、その理由が体感的に腑に落ちるような感覚を得た。宮崎を発って36時間の「待つ」を経て、僕は牽牛の気持ちで再び宮崎空港に降り立ったのだ。
この航路を何度、いかなる心境で往還しただろう
「待つ」人のいる宮崎のあたたかさ
空港から直接に向かった温泉には穏やかな人生を歩む人たちがいた。
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