生きる活動としての学びー「追究」を求め続ける
2019-07-02
「生活の実の場」=「学びの行為の主体」「追究の問い」を持ち「追究の主体」であること
「問い」を生み「問い」の次元を上げ、一人一人が「意味世界を生成」する
先週末の日本国語教育学会西日本集会福岡大会にて、会長の田近洵一先生による「生活主義の国語教育ーその再生と創造」と題する講演があった。僕が現職教員でありながら大学院博士後期課程に所属していた頃、研究班活動などを通じて田近先生にはお世話になった。その際にも「一人一人の「意味世界の生成」ということを述べられていて、様々な分野の「学びを創る」上で重要であると共感していたものだ。同様にご高著『創造の読み』で述べられている、「国語」において文学を読む際の「意味生成」を「創造的」に「自らを起ち上げる」ことで実践するという理念にも深い意義を覚えていた。今回の講演は、一聞すると旧態な国語教育の復古のようにも捉えられかねないが、むしろ新時代にこそ追究すべき国語教育の方向性が示されているように僕には思えた。「生活主義」を見つめ直すことで「温故知新」としての対話作用があることを感得したゆえである。
冒頭に記したのは、講演当日の「田近メモ」からの抜粋である。「追究」としての「学習の成立過程」では、「問い」を生むために「気づき・感じ・思い」を育てることから始まるとされている。言い換えれば「関心・意欲」の原点もまた、ここに発するのではないか。さらに言えば、短歌の出発点も「気づき・感じ・思い」を持つことにある。実に自明で簡単なことのようであるが、昨今の社会では子どもたちが健全にこのような情操を働かせることさえ、困難になりつつあるのではないかと思う。眼前の諸事に深い関心を持つ、教育学部の学生であれば「教員」を目指す「現在」において「自己」や「学ぶべき課題」に「気づき・感じ・思い」を持つことである。「学びの主体」である「自己」に気づかずして、どうして教育実習で「学び」の「追究」である授業ができようか。さらに大切なのは「問い」の次元を上げるためには、教師の責任として「文化的内容を視点として示す」ことが肝要であると「田近メモ」にある。まさに「文学研究・評論」などの成果が、学び手の「問い」をより高度なものに導くのだ。大学教育学部における学びの意義そのものが、言語化されて田近先生より示されたかのように僕には受け止められた。
「学ぶ」ことは「生きること」
短歌を「詠む」こともまた「生きること」
「生きること」は「学ぶこと」なのである。
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