九州で対話し続ける国語教育
2019-06-30
教科書と並行読書自分が読みたいものと教科書を見比べて
相互に楽しくなる対話と交流の国語教育
日本国語教育学会西日本集会福岡大会に参加するため、福岡教育大学を訪れた。九州地区の教員養成系単科大学として、国語教育関係の学会でここのところ頻繁に会場として伺う機会も多い。午前中の分科会では「読書活動」の教室へ。福岡県内の小学校の先生方がお二人、教科書の学習と並行して読書活動を充実させているという趣旨の実践発表を伺った。「教科書」教材は端的に言えば「つまらない」、それはなぜか?明らかに子どもたちが自ら選んだ「本」ではないからだ。ある意味で「大人」が「読ませたい」という「傲慢」を子どもたちに押し付けた「本」に他ならない。だが、子どもたちが自ら選んだ好きな本と並行して読書をすると教科書教材が相対化され、通り一辺倒に「読み取り」を行っているよりも、興味深く読むようになると云うのだ。お一人目のご発表に対して質問に立ったが、自ら選び取る意識を読書で養った結果、教科書も策を講じないよりも主体的に読めるようになったというお答えに納得した。
午後はワークショップと講演会。「精読」への窓口になる「指標」を持つことを実際の物語教材で体感する広島大学の山元隆春先生のワークショップは実に興味深かっった。「予想外のこと」を物語中に探す、それは短歌で言えば意外性のある「発見の歌」や機知に富む視点の意外な比喩に出会った時と同じような文学的興奮を覚える。その後は全体会となって講演へ。僕も早稲田大学大学院後期課程に所属していた際にお世話になった浜本純逸先生と田近洵一先生の講演。「ことば」の学びにおける「認識」の問題をご自身の研究を振り返りながら語る浜本先生のお話には、本居宣長の「事」「言」「心」の言語観も踏まえて、「国語」とは何かとあらためて問ひ返す内容であった。田近先生は、「生活」に根ざした国語教育の再生と創造をと主張する内容で、個々の「生活」が無視された空虚な「ことばの学び」に陥ってしまいかねない、現代の教育や社会環境に警鐘を鳴らす主張であった。「主体的」とか「多様性」とは簡単に言うが、それは個々の子どもたちが自らの「生活」=「ことば」=「命」を大切にすることに他ならない。その後、全体会の最後に、次年度開催校として全体にご挨拶を申し上げた。福岡教育大学から九州の国語教育の流れをバトンとして受け取った思いであった。
懇親会でも次年度のご挨拶
実行委員会スタッフにも恵まれて
九州から「ことば」の学びを豊かに発信していきたい。
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