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声を忘れた倭人たちー知識偏重の授業に思う

2019-06-25
知識としての季語
身体としての韻律
頭と声なら頭でっかちな学びが・・・

小学校「国語」の授業では学年が低いほどに、声高に音読する子どもたちの楽しそうな声が聞こえてくる。まさに純粋無垢といおうか、内容の理解などと云う「大人」の考えをどこ吹く風で大きな声を出して教材を読む。しかし、学年が上がるに連れて声のトーンは下がってしまい、高学年ぐらいになると、何らかの工夫を凝らさないと音読の意義が失われて来てしまうような状態となる。さらに中学校に上がればなおさらその傾向に拍車がかかり、高等学校になると豊かな音読とは程遠い頽廃した音読を教室で参観することも稀ではない。発達段階を考えればある意味で必然的なことで、この状況を踏まえた上で「国語」ではいかに音読活動を据えるかを検討すべきである。現在の社会で「音読」は年齢的発達段階と社会的変化の過程を、遡及する作業になってしまうことに自覚的であるべきなのだ。

学部2年生の教科教育関連講義で、前回は4年生が公立実習で実施した小学校3年生「俳句」の研究授業指導案を参考にその批評をした。その問題意識を元に、班別に5分間の学習活動を実際にやってみるというミニ模擬授業を実施した。4班に分かれた学生たちが展開した模擬授業のうち、3組までが「季語」を指摘してその知識を確認する内容であった。教科書の説明記述にも「季語」は含まれているが、「俳句にしたしむ」とした小学校3年生のめあてを考えると「音読」を有効に活用した授業展開が望まれる。声で身体化した上で知識としての季語は、後発的に意識する流れを作るべきではないかと思う。もちろん学部生のミニ授業は5分間と短いものであったゆえ、「音読」は実施した前提でと云う説明を付ける班もあった。それにしても「授業」となると、学習者とともに身体的に「音読」することよりも、知識としての「季語」に焦点化してしまう。前項に記した「音読」の発達段階での「退行」が、大学生にまで及んでいることを窺うことがでる事象ではないかと思う。

スマホ上に個別化する子どもたち
都会の電車内を見てもまたスマホの「文字」に侵された人々が
声を忘れた倭人たちは、自らの言語の大切な特長を捨て去っていないだろうか。


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