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身体の声が聞こえるとき

2019-06-21
「静寂のきはまれるとき耳の中よりきこえくるみづからの音」
(伊藤一彦『微笑の空』より)
丁寧に精密に聞きたい「みづからの音」

先週末の東京行きから引き続いた今週であるが、連夜の宴席も相まって疲労度が極まった感がある。しかし不思議と講義に関して影響もなく溌剌とできてしまうのは、自らがいかに「文学」が好きであるかを証明するかのようである。学部・大学院と2コマ連続講義、最終コマの会議までが終わると、さすがに消耗した身体を研究室の椅子に委ねた。しばし放心状態とでも言おうか、うなだれて動けなくなるような感覚であった。途中の休憩時に水分補給はしているが、湿度と気温が上がるこの時期は、十二分の補給が必要ではと自戒するところだ。その「二分」こそが、身体の潤いへと繋がるように思う。帰宅して野菜と良質な豚肉の炒めを食べると、不思議と回復傾向となり、さらに公共温泉で身体を癒してすぐさま寝床に入った。

冒頭の伊藤一彦先生の歌、結句「みづからの音」に不思議な説得力を覚える。「耳」は外部の音を聞くものと一般的に思っているが、実は「みづから」も聞いている双方向性の交差点なのであると考えさせられる。例えば、自分の発した「声」が喉・口から外界に放たれると、他者の耳とともに自らの耳にも返ってくるものだ。だが「声」は外界経由のみならず、身体内部で骨などに共鳴し「きこえくる」ものである。機器で声を録音して聞く際の違和感というのは、内部伝達された「声」を聞き慣れているのに、外界に放たれた声を機器によって強制的に聞いたことによるものである。睡眠に入る時点の自覚はあまりないものだが、暗くなった寝室が「静寂きはまれる」とすれば、やはり「みづからの音」を聞こうとすることも必要ではないかと思う。聴覚とは、音のみならず五感の様々な作用に連動するように思う。牧水もまたそのような傾向が強かったのだ。

みづからの身体この不思議な宇宙
人の話を聴くように身体の声に耳を傾けよう
生きるとはあらゆるものと対話することである。


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