やってみてこそ「得るもののあり」
2019-06-20
「人生は失ふたびに得るもののありと時鳥啼かねど 思ふ」(伊藤一彦『微笑の空』より)
やってみない空論では何も・・・
例えば、小中高の国語の授業をすることを考えてみよう。児童生徒に様々な学習活動を設定し、それによって獲得するべき力を学習者は身につけていく。学習活動の中では学ぶ者同士が、自分の考えを話し合い表現し合うことで、自らがどんな傾向でどのような視点で如何様に思考しているかを知る。知るのみで終わらずに、思考が十分に深まっていないと感じる「仲間」がいたら、比喩などの腑に落ちる言語で語りかけて思考を促す。学習活動には、「音読・朗読」や「短歌創作」などのように様々な表現が設定される。肝心なのは、その活動を教師自身がやってみてどうなるかという傾向を体験的に熟知しているやいなやである。「教え込もう」と考えている旧態依然な教師は、まず自ら学習活動をやってみることはしないことが多い。自らの偏向した思考を、権威で学習者に押し付けるのみに終始するからだ。
冒頭の伊藤一彦先生の歌を読むと、「人生」もまた「やってみる」ことが掛け替えもなく重要であることを再認識する。行動してみれば様々な抵抗も生じて、「失ふ」ことも少なくない。当然ながら人ひとりでできる許容範囲があり、欲張ればより「失ふ」ことも多くなる。だがむしろ、その「失ふ」ものを持ち続けたことを想像してみよう。自らの内部が飽和状態となり、持ちきれなくなってその場に倒れ込み、身動きができなくなるかもしれない。人生には、そのような自覚がなくその場から動けなくなっている輩がいかに多いことか。だが「失ふ」ことができればまた「得るもののあり」と短歌は教えてくれる。「時鳥」は『古今集』の「ほととぎす啼くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな」を否応なしに想起するが、「あやめも知らぬ」に「物事の条理もわからず」といった意味がある。「恋」の宿命も同様であるが、人生に「条理がわかっていて」できることはそう多くはない。「やってみて」こそ「わかる」ことが、人生の実践者としての生き方である。
「やらない」ものほど痛き言葉を溜め込む
想像も働かなければ腐敗した思考に陥るのみ
「失ふ」ことを恐れずして初めて「得る」ものがある。
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