暗唱は無意味なのか?
2019-06-18
目的なき「暗唱」に嫌気が差す覚えるのが学びと勘違いした教育経験
名歌名句を身体化している意義とは?
今回は短歌ではなく、俳句を教材とする。次の初句に「七五」を続けることができますか?「古池や・・・」「閑かさや・・・」「春の海・・・」「菜の花や・・・」「雪とけて・・・」「痩せ蛙・・・」、さてあなたはいくつ言えますか?という声のワークを、国語専攻の大学2年生に唐突に講義の最初に実施してみた。句によって差があったり個人差もあろうと予想していたが、期待を裏切って多くの学生がスラスラと言える状況ではなかった。専攻を異にする学生や高校生・中学生にも試したくなる衝動を個人的に覚えたが、当該の音読・暗唱活動は小学校3年生の国語授業としてゼミ生が教育実習で行ったものである。たぶん、小学校3年生ならある程度の句はスラスラと言えるのではないかと期待する。だが発達段階が上がるにつれ、その「身体化」は形骸化し「文化」としての価値を失ってしまう。名言や諺なども含めて、言語文化の世代的断絶はこの国の人口減少超高齢化とともに急速に進行していると言わざるを得ない。
「覚える」「暗記する」ことが「学力」とされる旧態な意識が、未だに教育現場に貼り付いて離れないようだ。中学校・高等学校と上がるにつけても、教師は「暗唱できる」ことに無条件に意味を当て嵌め、強制的に「暗唱テスト」などを繰り返す。強制された結果、生徒らは意義を見出すことなく難行苦行たる「暗唱テスト」をそのば凌ぎで済ませる。僕も現場にいた時に、そのような光景を眼にしたが、「覚えられない」という成句なら何度でも生徒たちは「テスト前」に顰めっ面で繰り返す。目的を示されない難行苦行は、どこか〈教室〉の音読にも類似しており、その活動そのものが豊かな文学の学びをもつまらないものにしてしまう。「蛙」や「蟬」を見たら、聴覚が起動してある光景と結びつく。海面の状態をオノマトペで表現したり、壮大な天体の共演を美しいと感じる。春の到来を喜ぶ子どもたちとか弱小な動物を無条件に応援する優しいこころ。前述の初句の後に関して意義ある「暗誦」ができれば、そんな言語文化の豊かさの中に自らの生活を発見することができるのだ。「親しむ」「楽しむ」という語は踊り上がるが、学ぶ側はその「めあて」に至っていない点を改善すべきと、学生たちを見ていて切に思うのである。
好きな楽曲を自然と身体化するように
「暗誦」の意義を再考してみよう
教育が見失ってきたものが、紛れもなく現在の社会を構成しているのだ。
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