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和歌の声・落語の声

2019-06-16
叙述にあらず生きた会話の声
寄席の空間を江戸の巷に変える声
座布団の上の話者ひとりにして

午後から和歌文学会例会に出席。和歌の詠出における「和する」という行為を再考する発表や万葉集の伝本における再認識を促す発表などがあった。いずれも歌を「詠出する」際の「声」の問題や、写本に示された「文字」をいかに訓じて「声」にするかという問題に関連させ、自分なりの問題意識が高まった。古典和歌というのはあくまで、「声の文化」の中で醸成されてきたメッセージ性の強い「声」なのであるとあらためて考えさえられる。その場で消えてしまう「声」という存在の刹那の価値に思いを致す。それが「文字」として記録されて来たゆえに、我々は古典和歌が読めるのであるが、それだけに乾麺をお湯で解くように「文字」を生きた「声」に再生させるという意識で考察すべきではないのか。近現代の傲慢によって喪失してしまったものを、意識的に考えてこその古典研究ではないかと思う。

例会終了後すぐに、上野は鈴本演芸場に駆けつけた。親友である真打・金原亭馬治師匠が今月中席の主任(トリ)での興行が行われている。番組そのものも楽しみで、馬治師匠の同門・馬久さんや人気の柳家喬太郎さんなどが出演しており多彩な声に酔い痴れた。落語はあくまで「声」のみで情景や物語を聴衆に伝えることのできる、生き残っている「声の文化」である。「説明的」ではなく、登場人物の発話を巧みに構成し伝わる内容となる。発話者の声色や喋りの特徴を存分に演出することで、笑いの渦中に聴衆を引き込む。馬治師匠のトリの熱演に酔い、当時の廓の光景が明晰に想像される。「説明しない」「理屈ではない」という意味で、短歌の響きにも通ずるなどと考えつつ、馬治師匠と打ち上げまで楽しんだ宵のうちであった。

いま小欄を書いているカフェの店員
僕が食べ終わっているのかも確かめず皿を引いていった
「お下げしてよろしいですか?」という声を喪失しているのであるが・・・


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