声と文字の関係再考
2019-06-14
「納涼祭を納豆祭と読みちがふ豆腐を頭腐とあはれ書きちがふ」(伊藤一彦『微笑の空』より)
読みちがふ「声」書きちがふ「文字」
14日に「響き歌会」という新たな試みに参加し、冒頭に「いま響きを重視する意味」について簡単な話をすることになっている。かねてから学校における「音読・朗読」の問題、「声の文化と文字の文化」の問題、若山牧水が身体性ある短歌を詠めた最後の世代であったことなど、「声と文字」について諸方面から追究してきた。学校における音声言語教育と文化としての「声と文字」といった明治以降の国語教育史で考えるべき問題を、牧水を起点に古典和歌まで視野に入れて総括的に考究できたらと、今後の研究の方向性も見据えている。我々が小学校で「文字」を習得し始めて「読みちがい書き違い」を指摘され、難解な漢字学習に取り組んで来る体験的歴史そのものが、日本語の遺伝子を知る上での重要な論点を含むものと言えるだろう。また、なぜ牧水が身体性を伴う短歌づくりができていたのか?宮崎出身という風土の問題とも関連させつつ、牧水論として体系化したいとも考えている。
冒頭の伊藤一彦先生の短歌は、「老いて歌おう」という高齢者短歌活動の一環で老人ホームを訪ねられた際の歌のようである。「たかはらの老人ホーム世の音を遮断して世の一切があり」という歌に「定期的に出かけている」と詞書があり、「世の音」という表現で世間一般の諸事喧騒を表現しているのも興味深い。高齢者の方々の生きざまには、「世の一切があり」と深い人間のあり方が見えてくることだろう。冒頭の歌のような「読みちがひ書きちがひ」は、何も高齢者に限るまい。「あはれ」とあるが現代語のそれとは趣旨がちがい、古語の「しみじみ趣深い」といった感興で捉えたくなる。高齢の方々の「可愛さ」とでも言おうか、むしろ日本語の面白みを無意識に露出させており、前述した「教育と声と文字」の問題意識にも通底する。「納涼祭」も「文字」として書いてあれば何ら問題はない、「豆腐」は「声」で伝えられれば意味は通じる。そこに「声」と「文字」のやるせない関係性が垣間見えている。
日常言語をはじめ散文が「文字」依存から抜け出せないなら
短歌が「声と文字」の双方を考える最後の砦ではないか
「響き」の意味を仲間たちとじっくり考えてみたいと思う。
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