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あざといか純情かー「風吹けば沖つ白波」

2019-06-11
「風吹けば沖つ白波龍田山夜半には君がひとり越ゆらむ」
(『伊勢物語』二十三段より)
「男女の仲をも和らげ」和歌の効用を考える

国文学講義で『伊勢物語』を購読しており、一連の「二条后章段」から「東下り」を終えて「筒井筒章段」を扱う回となった。この章段では幼馴染で結婚した男女の話で、大和国に住む女親の経済力が衰えたことを理由に、他の女(高安の女)の元へと男が通い始める。その「通い」を疑いもなくすんなりと送り出す「大和の女」に、むしろ留守中に浮気心があろうかと疑った男が、出かけたふりをして「大和の女」の庭の植え込みに隠れて様子を窺っている。すると男がいないにも関わらず「大和の女」は大変端正に化粧までして、冒頭のような男の夜道を歩むことを心配する歌を詠む。その歌を知った男は心を打たれて、それ以降は「高安の女」のところへは通わなくなったと語られている。当時は、和歌を創ると声に出して朗詠していたことも窺う証左となる内容としても興味深い。

学生たちには、この章段の「大和の女」と「高安の女」の双方が詠んだ歌の表現を比較し、歌の効用が発揮された前掲「大和の女」の歌をどう評価するか?といった内容で議論を展開した。まず「大和」「高安」の一方の立場となり、自らの意見はともかく評価できる点を主張する。その後に立場を反転させて、今一度議論をする。自らの賛同いかんを問わず、まずは双方の立場を体験することは教育者を目指す学生にとって重要で、なおかつ「大和」か「高安」か?という二項択一ではなく、新たな第三項の価値観を見出す思考のあり方を考える意味でも有効だと考える。冒頭の一首は、序詞に掛詞と技巧を凝らした作り込みがなされる。「大和の女」は男がいないのに「いとよう化粧じて」いたこととも相まって、「計算高くあざとい女」なのだという意見が出される。だが、あくまで贈答を意図しない独詠歌で「化粧」は神への祈りのためと解する説もあり、「大和の女」の行動こそが純情で雅やかなのだと解する意見も出される。「技巧」があることは一見、「計算」であり仕組んだように見えるが、序詞の「風吹けば沖つ白波」そのものが、単なる「技巧」に終始せず、男女が共有すべき人生の心象風景を描いているとすれば、男の心を掴んだのも頷ける。具体的に相手の男が置かれた夜道の状況が映像として想像できるという点でも、この歌が優れた「歌徳」を発揮したことを窺えるのだ。

自らの意見は主張してみる
対立は恐れず考えを述べてみること
歌を比較して批評できる思考が、豊かな知性と感性の成熟をもたらす。


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