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急な陽光むしろ仇なりー植物の「痛恨時」

2019-06-10
「わが家の痛恨時なり三十歳の実生のしだれ桃の枯れたり」
(伊藤一彦『微笑の空』より)
草花の立場になって考える

屋内に置いて育てていた鉢植えを、ある日の天気がよいのに任せて庭に出して日光浴をさせた。さぞ光合成よろしく元気になるだろうと思いきや、夕方には萎えてしまう茎が現れ外に出したことが誠に「痛恨」な仇になってしまった。人間の栄養補給においても、それまで栄養摂取が十分でない人に急激に過多な栄養補給をするのはむしろ抵抗が大きいことを知った。自動車学校での机上の講習でも「急」のつく動作はしてはならないと学ぶ。回復したからと安心して気をぬくと、腰や膝などの要所は痛みが戻ってしまう。自らの身体でも十分に理解していない場合が多いのだから、植物の声を聞くことは容易ではない。日々に十分な呼吸をし水分をどの程度欲しがっているか?「飼い主」の緻密な接し方が求められる。反転して考えてみれば、家族にも日々にその状態の変化に思いを致すことが必要なのは自明のことだ。

6年前、宮崎に赴任して半年後に自宅を購入した際に、不動産屋さんからお祝いにいただいた胡蝶蘭の鉢がなかなか動かせなかった。数年間は再び花をつけたりしていたが、僕自身の忙しさに任せて日々の声を聞くなどできない状況で、次第に茎までもが枯渇した状態でそのまま放置されていた。どうも枯れてしまった植物をそのままにしておくのも運気が開けないと云うゆえ、ようやく適切な道へと鉢を動かした。また庭に偶然咲いたグラジオラスの花は、その咲いた花の重さに茎が耐えきれずこうべを垂れてしまったので、胡蝶蘭に挿してあった添え木を当てがった。それでも茎の一部は損傷し、いつまで養分を吸い上げるか心配する日々である。冒頭の伊藤一彦先生の歌は、僕の体験など足元にも及ばない「三十歳」の「実生(みおい)」=「草木が種子から芽を出して成長すること」の「しだれ桃の枯れたり」という現実は、「わが家」=「ご家族」にとって誠に「痛恨時」であっただろう。短歌を繊細に描写することは、どこか植物を愛し育てる感性に似ている。まさに命に向き合う、という「決意」に他ならない。

庭を楽しむ生活
友人の子どもたちは庭の虫を友だちのごとく
ようやく本当の宮崎生活が幕を開けたのだろう。


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