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「自らを人と信じゐる」人として学ぶは文学

2019-06-04
「みづからを犬と思はぬ犬あるらし人は自らを人と信じゐる」
(伊藤一彦『微笑の空』より)
人とは何かを学ぶは文学

近所の農道沿いの原っぱにいる山羊については、先日の小欄でも紹介した。なぜか妙に気になり、要件がなくともその道を様々な時間帯に通る欲求に駆られる。道路の前後から車が来ないのを見計らってしばらく停車して観察してみる。すると先方の山羊さんも、こちらを意識して顔を向けて静止している。こうした状況になると人間の悪い癖で、ついついクラクションなどで牽制したくなってしまう。車窓を開ければ、そこに生命がいるということを自覚できる臭気が漂う。かの山羊さんは、果たして自らのことを「山羊」と思っているのだろうか?とりあえずいま「さん付け」で呼んでみたが、いずれ何か名前を勝手に与えてみたいと思うのはなぜだろう。そこに「生命がいる」ことへの喩えようもない意識、僕たちが人間だからこそ働くものなのだろうか。山羊さんを対象化しつつ「自分たちの命」についても、深く自覚的になるべきではないかとあらためて考えさせられるニュースがこの社会には容赦なく飛び交う。

冒頭の伊藤一彦先生の歌、上句で「犬」のことについての伝聞推定を語る。「みづからを犬と思はぬ犬」は、僕も実家で犬を飼った経験がありよく理解できる。「人」は自らを「人間」と思い犬より優位な立場で彼らを上から「飼っている」と意識するが、彼らは「生物」として僕たち人間と共生する家族のような意識でそこに存在するのだ。置き去りで出掛けようとすれば、悲しげに自らが仲間はずれだと自覚する顔を向ける。食事をしても、人と同様に何か食べたいとアピールする鳴き声をあげたりもする。「共生」という意味においては、はるかに犬の方がその意識に長けているのではないかと思うこともしばしばだ。眼の前にいる「生命」に向き合うこと。その生物としての基本的な本能による態度を、人間の身勝手な社会性によってすっかり失ってしまった人々があまりにも多くなってしまったことが露見し始めている。動物としての「種」など、元来は垣根などないのだろう。「生命」に向き合うこと、そこに恋が愛が生じること、「自らを人と信じゐる」ためにも。

文学こそがそんな人間の貧困な精神を救う
「ことば」こそが生きること
いまスマホだけを見つめているあなた、近くにいる「人」に人として向き合ってみよう。


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