「内に外に」人に向き合いてこそ人として
2019-05-30
「内に外に見殺しの罪もつ者が芽吹く林を堂堂と行く」(伊藤一彦『微笑の空』より)
一人ひとりに向き合える社会として
学部4年生の応用実習が始まり、県内市内の公立小学校・中学校にゼミ生たちがお世話になっている。2週間の実習期間は学校行事などによって前後し、早い学校では研究授業が始まった。3年生の基礎実習で附属小学校・中学校で学んだことを、応用して自己の課題を解決するとともに、教員採用試験に向けての「現場経験」としても大切であり、何より学生自身の一生の中で「教師」として生きる意志を固める機会でもあると思っている。研究授業を参観してよく考えるのは、技術的に適切な指導方法に則って授業を進めていること以上に、児童・生徒たちとの関係性が結べているかどうかという点に注視することだ。「授業」は決して「集団」を相手に「教え込む」ものではなく、個々の思考をいかに動かしその個別な変容に対応するかではないかと思う。僕自身の実習や初任時の経験からしても、どうしても「集団」を「塊」として語り掛けならぬ「放言」のごとき言葉を浴びせているやるせなさが、まずは気にすべき点ではないかと思う。
冒頭の伊藤一彦先生の歌には、教育者として人間として忘れるべきではない自己と他者の関係性の核心を批判を込めて訴える迫力がある。「内に外に」では自己の内部でも外部とでも「見て見ぬ振り」をするがごとき誤魔化しを、誰もが犯しがちであることを考えさせられる。「見殺しの罪」は鮮烈でドキりさせられる表現であるが、学校現場で「クラス」などに向き合った際にいつも意識すべき教師の自己批判的な意味合いを持つと思う。「見殺し」ならまだしも、「授業」を「独り舞台」にすることで、「教師」は無意識の自己顕示を見境なく浴びせている危惧がある。学びは児童・生徒のものであるのは自明でありながら、野球の守備練習でノッカーが主役であるかのような状況に類似した「授業」が、実習生ならずとも少なからず存在する。児童・生徒は純粋な「芽吹く林」であろう。「堂堂と」に表現された無自覚への批判、教育ならずとも人として考えておきたい心の境地である。掲出歌の前には後述する歌もある。
「相談者(クライアント)の前にをりつつその姿見えぬが極致カウンセラーは」
子どたち一人ひとり、そして国民一人ひとり
みんな一人ひとりが「生きる」とは何かを、もっと考えるような社会でありたい。
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