「あまりにも『いい子』の」何が凶行に至らしめるのか?
2019-05-29
「あまりにも『いい子』の君は手首切る過剰期待はすでに虐待」(伊藤一彦『微笑の空』より)
凶行と自傷とを過剰に煽る分断社会
朝の連ドラ直後のニュース速報、あまりの痛ましさに言葉を失った。小学校へ通学時の児童が、次々と襲われて尊い命までもが失われた。ご冥福を心よりお祈りしたい。許し難き「蛮行」、警備を万全に行っていたとする学校関係者の心痛は、その会見の言葉の端々に表れていた。メディアは「通学時の児童をいかに護ればよいか?」というテーマを掲げ、「専門家」なる者たちを動員し即応的な「対策」を報じようとするが、その先の見えない過剰な「対策社会」そのものが大きな問題なのではないだろうか。多くの事象において「対処療法」のみに偏向すれば、「病巣」を放置しむしろ傷口を拡げる結果になりはしないだろうか。とはいえこうした凶行の「病巣」は何か?1997年以来20年以上の月日が経過したが、僕たちの暮らす社会の「闇」をさらに社会情勢が煽り立てるような形相を顕にする。昨日の同じニュース枠で報じられた「軍事」方面への過剰な偏向は、僕ら庶民の身近にある「暴力性」と無関係ではないと思えてくるのだ。
紛れもなく、「いい子」が溢れ返る世の中になった。「お受験」も「クレーム」も「SNS」も、多くの社会現象が「いい子」を「過剰期待」するゆえのものではないか。「学校」という装置は常に「いい子」を期待し、一つの答えたる「いい子」像を目指させて横並びの同調圧力を生じさせる。児童生徒は「ペルソナ(仮面)」を被り、その表面的な「キャラ化」した生き方を強いられ続ける。「過剰期待」に応えなくともいいと悟った者はいいが、重い「ペルソナ」を被り続けた者は、いつか息切れするか蓄積された憤懣を異常な言動で解放しようとする。体裁や体面を重んじるが、社会の中では人間的に繋がろうとはしない「いい子」が無自覚に氾濫する。長年に渡り学校カウンセラーという要職に従事していた伊藤一彦先生の冒頭の歌は、この20年以上にわたる社会が抱える「闇」の要因について、核心を捉えるものであると思う。「過剰期待」された「いい子」が限界を超えれば自傷に及び、それを強いた社会そのものが「虐待」性を持ち得ているのではと、結句の「すでに」に強い怒りの口調を感じざるを得ない。97年当時、まだ21世紀という理想を描く社会が「夢」であったはずだ。だが、これほどに「闇」を暗澹たるものにしてしまった政治・社会を個々の僕たちが背負い考えていく責任を今一度、考えるべきではないか。「自傷」と「殺傷」は裏返しの心理である。お断りしておくが、今回の事件がここで述べた「いい子」と直結する問題だと小欄は主張するわけではない。社会に根深くなってしまった97年当時から言い続けられている「闇」の過剰さを憂えているのである。
僕たち「教育」に携わる者に何ができるのか?
ことばの力を信じている国文学にも何かできることがあるのではないか?
「いい子」の過剰な外交を見せつけられた後だけに、である。
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