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「姿小さし」田圃の中の山羊たちよ

2019-05-27
「朝日射す樹のいただきに啼く鵙の姿小さし火の声出し」
(伊藤一彦『微笑の空』より)
動物たちが生きられる里で・・・

近所の公共温泉へ行く道すがら、田圃に囲まれた草地に番いの山羊が飼育されている。しばらく前のことだが、夜間に温泉へと向かっていると僕の車のライトに照らされた白い影が、急に奈良公園の鹿に煎餅を献上する際のように頭を大きく下げたのに驚いた。街灯もない農道ゆえ、その白い影が山羊だが何だかわからず、少々オカルトチックな気分に肝を冷やしその場を通り過ぎた。その後、明るいうちに妻とともにその場所を通過すると、やはり山羊が繋がれて小屋も用意され、二頭が草を食んでいた。車の通りも少ないので、暫く車窓から山羊を観察していると、雄の顔立ちが妙に厳つくようで、その鮮烈な印象が頭から離れなくなった。「山羊」が持つ一般的なイメージは穏やか極まりないものだが外敵から身を護る遺伝子もあろうか、やや戦闘的な恐さである。それ以来、敢えてその農道を通り山羊はどうしているかと観察する日々が続いている。

動物の存在感は様々だ。昨晩は公共温泉の受付レジに、身は小さけれども脚が極めて長い蜘蛛がいた。あの胴でいかにしてその脚を操るのかと、不思議なほど不均衡な身体であった。家にも以前に「脚高蜘蛛」と言うらしき大きな奴さんが現れて、恐怖に慄いたこともあった。他にも家守(ヤモリ)や百足(ムカデ)に出会うこともある。自然の中で生きるとはこういうことで、彼らもそれぞれに生きるため身を護るために、自らの特徴を最大限にアピールして生きているのである。冒頭の伊藤一彦先生の歌では、「鵙(もず)」のことを「姿小さし」とは言いながら、鮮烈な啼き声を「火の声」と表現している。誰しも「あの声」は印象が深く、表現したいと思う一つであろうがなかなか難しい。「声」という聴覚的な印象を誰しもが納得する描写をすることが、歌人の腕の見せ所であろう。「姿小さし火の声出し」は、「姿」と「出」の「が」と「だ」の濁音の響きを、「し」が脚韻のように受け止め、その中で「火の声」というパワーワードが「鵙」の声を想起させるように鮮烈な印象に導いてくれる。もちろん上句の「朝日射す樹のいただきに」は「サ行音」と「イ段音」の効果で、爽やかな樹に朝日という舞台装置として「鵙」の「火の声」を演出している。

あの山羊は朝日を浴びていかにしておるや
「里山」とまではいかぬが自然のある里に暮らす
動物たちが生きられる正常な空間で生きていたいものだ。


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