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「来たりて気づく」親への思いいつも

2019-05-25
「象あらぬ動物園の寂しさに新しく象来たりて気づく」
(伊藤一彦『微笑の空』より)
ゐて当たり前か、否、ただここにゐることの尊大

食卓というものは単に栄養補給の場ではなく、語らいの場であるべきと思う。他者を食事に誘うというのは、どのような相手であっても「話をしよう」と同義であろう。昨年あたりのことであったか、近隣の小学校で「読み語り」のワークショップを行い、同行した学生たちに「ご飯を食べて行こう」と誘った。近隣で僕が行きたいと思う店は焼鳥屋しかなく、その店へ4、5人で入店した。学生たちは僕の言葉を額面通り捉えて、注文の段になって「ご飯ですね?」と確認してきた。僕は躊躇なく「ビール!」と豪語した。食卓は「語らい」の場であり、語らいには「酒」がつきものである。「呑まないで理屈を言う奴は猿の顔に見えてくる」といった趣旨の大伴旅人の歌が思い出される。食卓の語らいは、自ずと長時間に及ぶ。ゆっくり食べて消化器官にも優しく、精神的にも解放されるという利点だらけの和やかな食卓が好きだ。

妻と両親とともに、すき焼き鍋を囲んだ。牛肉や野菜の美味しい宮崎では、良質な材料にも恵まれている。地元産のワインも夫婦で開けつつ、アルコールが入らずとも同等かそれ以上に語り尽くす母の底力を見るようであった。「特別」でなくとも、「日常」の一幕が和やかであることの幸せを存分に感じることができた。だが妻はもとより、両親もそこにいて当然の存在ではあるまい。今この宮崎で食卓を囲めるまでに歩んだ道を、存分に感じ取ることが必要であろう。母の話を聞いていて、僕の存在そのものも際どい偶然から生じた奇跡であることを考えさせられた。冒頭の伊藤一彦先生の歌は、「動物園の象」の存在への人間たちの思い込みに気づかされる一首である。「象」がいなければ寂しいはずであろうが、「新しく象来たりて気づく」とその寂しさに無頓着である意識を突く。「象」の存在感は格別であろうに、何か変化が生じなければ「日常」の無意識の底に沈んでしまう。「象」を直接の比喩にとは思わないが、「新しく」はできようもない「両親」の存在感にも類する意識があるように思えるのだが。

今夜の食卓を貴重なものとして
心を語り尽くしてこそ明日が見えてくる
暑さも増したが好きなものに手を出す、すき焼きの感じが対話にも比喩される。


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