「雨しぶき降る」宮崎の夜
2019-05-21
「妻とゐて妻恋ふるこころをぐらしや雨しぶき降るみなづきの夜」(伊藤一彦『火の橘』より)
早くも「みなづきの夜」のごとし
先週末から宮崎県は、大雨に見舞われた。日南方面は特に降水量も多く、「日南海岸ロードパーク」と呼ばれる国道220号線も鵜戸神宮の前後あたりで通行止めが相次いだり、JR日南線も運転見合わせが続いていた。日南方面へ車で向かうと、いつも「宮浦」あたりで山側の崖が崩れた痕跡が気になる。海岸沿いに崖が迫った一本道は、逃げ場もなく寸断されれば暫くの間は通行不可能となる難所でもある。夏場の台風をはじめ、宮崎の雨は容赦なくわれわれ人間に浴びせかけられる。「安全」が当然であるわけではなく、自然と向き合って生きることの過酷さと安寧の双方の入り混じった思いとなる。それだけに自らを起点とする人間存在の矮小さ・脆弱さの自覚と孤独なさびしさを存分に感じることになる。こうした心の作用こそが、宮崎に住む人々の穏やかさ・優しさ・愛情深さの大きな要因ではないかとも思う。
こんな夫婦関係でありたい、冒頭の伊藤一彦先生の歌はしみじみとそう思わせる一首である。三句目「をぐらしや」の解釈はなかなか難しい。辞書によれば「《「を」は接頭語。少しの意》うす暗い。ほの暗い。」(『全文全訳古語辞典』)とあり、『源氏物語』の「山の方をぐらう、何のあやめも見えぬに」(「宿木」)を用例として引く。「妻恋ふるこころ」のことを「をぐらし」というのは決して負の意味ではなく、いつまでもやまない不思議な恋心と解せばよいだろうか。「雨しぶき降るみなづきの夜」という制御ができないながら底知れぬ力を供給されるような自然のうちに置かれる夫婦の姿。明確で数値的な「答え」だけが重視されてきた現代の世相の中で、夫婦の恋心という簡単には見通せない、二人だけが探せる愛情この上ない機微を見事に描いた、愛誦すべき歌であるように思う。
こんな夜には「妻とゐて」
雨音に何を思うや
自然を聞き愛すべき人の心を聴く
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