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「寂しさを忘るるといふ」語り合う人のいれば

2019-05-16
「寂しさを忘るるといふ寂しさのありや菜の花の海の広がる」
(伊藤一彦『新月の蜜』より)
語り合う人・我を知る寂しさ

教員採用試験の願書提出締切が近く、ゼミの学生たちが試案を見て欲しいと盛んに持ってくる。「添削していただけますか」と一般的に通例な依頼を受けるが、僕は「添削はしない」といつも答えている。しかし「対話をします」と付け加える。理由は「添削」を施してしまうと、僕の「文章」になってしまい、学生「本人」の文章ではなくなってしまうからである。僕の「文章」になってしまった願書の内容を元に、面接が行われることを考えてみよう。その文章を表面上は読んでいたとしても、学生たちの思考や感覚からはかけ離れた質問が浴びせられるかもしれない。結果的に「添削」を施したことが、二次試験で仇になると考えるゆえである。このような主義の中で、一人で来る者もいれば、複数人でという時間設定で願書PR文章の「対話」をしている。面白いのは、複数人で実施するとより深く個々の学生の良さを語る内容になることである。

もとより教員には、「協調」する心が大切なのは自明である。「個」を主張する願書とはいえ、仲間と協働活動を実施することで、客観化された「自己」にあらためて気づくことができる。人はあくまで「個」であり「孤」でしかありようもない宿命、「独り」で生まれ「独り」で死なざるを得ない。牧水の歌に頻出する「かなし」「さびし」は、人間の「孤」を悟り愛情を求める心の裏返しでもある。この世で何よりもありがたきは、物理的物質的な環境ではなく「人」であろう。そのかけがえのない尊さを知るために、「寂しさ」があるもかもしれない。冒頭に掲げた伊藤一彦先生の歌もまた、「寂しさ」の本質を「菜の花の海の広がる」光景と対象化させることで炙り出すことに成功した一首であろう。「寂しさ」は「寂しさ」でしか忘れられない、円環的な真理を深く考えさせられる。この春先、宮崎に来て初めて一面の「菜の花の海」を見ることができた。「花を愛でよう」という、平穏な気持ちにさせてくれる人がいるゆえである。「海」はあまりにも「花」としては広大過ぎて、どこか「寂しさ」のような感情も抱いたように思う。華々しさの背面には、いつも「我」を自覚する「寂しさ」がある。ゆえに愛する人の存在があってこそ、「自己」を支えることができるのだと思う。

採用試験願書は自己発見の扉である
「寂しさ」を悟る語れてこそ光るものが生まれる
「菜の花の海」をまた思いながら睡る。


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