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「崖の木を見てしまひたり」誰の眼が何を見ているのか?

2019-05-10
「月光に一葉揺らさず叱られてゐる崖の木を見てしまひたり」
(伊藤一彦『森羅の光』より)
「視点」を見つめて

同じ光景を見ているとしても、人それぞれに捉える視点は違うものだ。眼前に広がる世界のどこをどのように見るか?そして視線が定まった対象を、どのようにことばとして描写するか?最終的にそのことばの密度によって、対象を捉えている視点の持ち主の思考の深浅が表れる。この「どこをどのように捉えて、ことばとしてどのように表現するか」という点において、学生が講義などで記述した内容を吟味すると、その学びの度合を判断することができる。本年度から講義での課題形式を改良し、時間外学修の成果を記す部分と、それに基づき講義内でいかなる気づきが生じて課題解決意識が芽生えたかが可視化できる用紙を作成し使用している。毎回その用紙を読んで学生の学びの深浅を計りコメント付し、講義の視点を対話的に変化させることを試みている。

冒頭の伊藤一彦先生の一首もまた、「視点」そのものを詠んだ歌である。歌の(創作)主体の視線は「崖の木」に不意に注がれてしまい「見てしまひたり」と表現される結句が印象的だ。焦点化された「崖の木」は月光に照らされているのだが、その光景を「一葉揺らさず叱られてゐる(崖の木)」と捉える。月かげさやかに、いや鋭く刺すかのような光に「崖の木」は微動だにせず「叱られてゐる」のだ。月光の神秘的な力とともに、地上の自然の一生命の力強さや矜持までもが感じられ、人間存在の感情の軽微さを思い知らされる。空に浮かぶ「月」そのものではなく、月光の辿り着く先へ視点がある発想が秀逸である。サザンの「栄光の男」という楽曲があるが、その歌詞に「満月が都会のビルの隙間から、このおっちょこちょいと俺を睨んでいる。」を僕は想起した。もちろんこの場合は「俺」が「満月」に「叱られ」ているイメージだが、前述の短歌でも「崖の木」は、主体を含む「人間」そのものもまた「叱られてゐる」ように思えるとの読みもできるだろう。「見てしまふ」ことの存続表現(「たり」)が、「われ(人間)」への連なりを読ませてくれる。

講義では『源氏物語』若紫帖の視点論を
姿勢・視点・思考をいかに展開しているか
短歌の視点はいずれも鋭さを覚えるのである。


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