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「緑の夷中、妄の東京」純朴な緑に生きる

2019-05-09
「風吹けばばさらとなりて樹樹うたふ 緑の夷中、妄の東京」
(伊藤一彦『森羅の光』より)
樹樹の新緑も美しき宮崎

約2ヶ月ぶりに、両親が東京から宮崎へとやってきた。母は生まれも育ちも新潟、父は東京、ゆえに母の志向としては「都会」にある種の憧れを持って嫁ぎ上京したことが、当時の話を聞くとわかる。時は高度経済成長期の日本ゆえ、その「憧れ」の感覚は今以上であったと予想する。交通網は次々と便利に整備され、常に最新のもので溢れ、仕事でも娯楽でも経済がフル回転する活気に満ちた「都会」である。そんな両親から生まれた僕もまた「都会」を好意的に受け入れ、住んでいた街に芥川龍之介をはじめ多くの「文士」たちが住んでいたことにある種の憧れを持った。山手線内という「都会」でありながら、どこか鄙びた雰囲気のある街であることが「文士」たちの感性に適していたのかもしれない。街には緑に包まれた公園もあり、幼稚園でも自然体験が多かった。「夷中」(=田舎)と「東京」という対比的な感覚は、僕の中にも幼少の頃からあったような気になる。記憶を辿れば、上野・池袋・新宿などに行くことを「怖い」と思った頃もあった。

僕自身が宮崎での生活に愛着を感じ、この地での生活に悦びを覚えるのは前述のような感覚に由来するのかもしれない。母なども宮崎の空気や食べ物の美味しさを深く堪能している。「昭和」の時代にも増して「東京」は、誠に「秩序を無視」し「節度を失して」いるように感じるのは僕だけではあるまい。冒頭には伊藤一彦先生の一首、結句「緑の夷中、妄の東京」に僕は体験的に前述のようなことを想起した。「みどりの」「みだり(妄)な」の韻律上の照応も魅力で、一音の違いで大きなイメージ・意味に差が生じることが感得できる。「みだり」は「乱・妄・濫・猥・漫」などの漢字が当てはまり多様な趣旨を含むが、「秩序を無視するさま。道理がたたないさま」「思慮分別を欠いているさま。」などが辞書における本義的な意味である。青の国・宮崎では「樹樹うたふ」も盛んな季節になってきた。父母とともにすることで、僕ならではの生育上の特徴的な感性を発見できることもある。

青々とした山並み
鳥の声がいつも語り掛けてくる
「妄の東京」を宮崎から見つめている。


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