「ゆゆしきまでに天は紺青」連休明けキャンパス
2019-05-08
「日向の国こともなけれど今日もまたゆゆしきまでに天は紺青」(伊藤一彦『青の風土記』より)
連休明けのキャンパスの「ゆゆしきまで」
10連休明け、学生たちが集いキャンパスに活気が戻るかと思いきや、拍子抜けするような静けさに包まれており、いささか異様さまでも覚えてしまった。通常の暦は「火曜日」であるが大学暦は「月曜授業日」、全学共通基礎教育科目が少なく教育学部の学生だけという影響などもあろう。それにしてもこの10連休という所業が、社会の精気を吸い取ってしまったような気さえする。Web検索事項でもTV報道でも「長過ぎた」「仕事がつらい」などが世にはびこり、「学校」関係では「SOS」のサインに御用心と喧伝されている。「休む」という意識におけるこの国の「文化」的な背景も考えさせられるが、私立大学所属の研究者仲間たちは、どうやら各「大学暦」で15回の半期講義を確保のため10連のうちに「授業実施日」があったところも少なくなかったようである。この雰囲気を的確に表現する語彙はないかと思いきや、「ゆゆし」が適切ではないかと思う午後であった。
「ゆゆし」は現代ではあまり使用されないが辞書によれば、「(一)触れると重大な結果をもたらすので、触れてはならない。はばかるべきである。(二)程度がはなはだしい。一通りではない。大変である。容易でない。大層である。すっかり・・・である。(三)非常にすぐれている。すばらしく立派である。」(『日本国語大辞典第二版)とある。上代から中古では「不吉さ」を語感に含んでいたが、次第に「程度がはなはだしい」という用法が見られ、中世以降は「プラスの意味」も趣旨として表現するようになったようだ。「青柳の枝きり下ろし斎種(ゆたね)蒔き忌忌しき君に恋渡るかも」(『万葉集』巻15・3603)とあるように「斎」や「忌」の文字が当てられているのがわかる。いわば捉え所のない神聖さを表現するような語として、時代によって派生してきた語彙である。冒頭の伊藤一彦先生の歌は、「日向の国」の「天は紺青」で、その様子が「ゆゆしきまで」であると表現している。二句目「こともなけれど」と「ゆゆしきまで」の呼応が韻律も意味の上でも絶妙に仕立てられた一首と読んだ。三句目「今日もまた」は牧水の名歌をも想起させ、初句の「日向の国」(これも牧水にあり)と響き合う。「紺青」は宮崎に住んでこそわかる、「天(空)」の神聖な色である。
「紺青」は「紫ががった鮮やかな青色」
「日向の国」の自然の崇高な象徴
日常に戻るにも大きな力が必要なのであろう。
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