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「五月の空はただにしづまる」連休最終日のしづけさ

2019-05-07
「眼のなかに闇あればこそ光見ゆれ五月の空はただにしづまる」
(伊藤一彦『青の風土記』より)
10連休最後の異様な静けさ

10連休の最後は午前中の読書などを終えてから、ジムへ向かう。その道すがらいつもなら混んでいるうどん屋さんも、また車の交通量も通常ではない。市内中心部へと入る通常なら渋滞している交差点が尽く空いているのだ。ジムへ到着しても駐車場からジム内まで、やはり人出は少なかった。トレーニングで気持ちよく汗をかき、その後は買物へ。休日の夕方なら混むはずのモール駐車場に空き箇所が多く見える。このあたりから、何か異常とも思える「しづけさ」を感じ始めた。帰路に馴染みの米屋さんに寄ると、どうやら「10連休でお財布も身体も疲れている」ような状況を世間様に感じると云う話になった。ある意味で「消費」は通常のGWより大きく動いたのかもしれないが、経済的にも身体的にも「10日間の非日常」に世間が疲弊した感が否めないように思う。

何事も「光」ばかりに眼は向きがちであるが、それは「闇」があってこそ初めて見えるものでもある。昨今の巷間では特に「闇」を誤魔化しや隠蔽によって強制的に見ないようにする傾向が、より一層強まっているようにも思う。冒頭に今日もまた、伊藤一彦先生の一首を掲げた。「闇」を見つめる眼が自らのなかにあってこそ「光見ゆれ」という、陰陽の意識をあらためて考えさせられる。「闇」と「光」は、様々な比喩として各自が置き換えて読むことも可能であろう。もし「10連休」が華々しい「光」としか見ないならば、連休明けに待つ「闇」を正視できないかもしれない。TV映像が映し出す都会の「光」を「世の日常」と狭窄的視野で誤解するならば、日本社会における個々の生き様は見えてこない。となれば、「眼のなかに闇」を見る広範な視野が得られるのも、宮崎のような地方ならではのことかもしれない。そして「闇」を見ることは、決して否定的なことではない。虚飾の「光」のみに目が眩む輩よりも、はるかに崇高で前向きな生き方なはずである。

連休最終日は「ただにしづまる」
この10日間はなんであったのか
ただ「五月の空」からの風を信じている


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