「うちあがりゆく今が永遠」今とはなにか?
2019-05-06
「過ぎにしを言ふな思ふな凧高くうちあがりゆく今が永遠」(伊藤一彦『青の風土記』より)
連休たる「今」もまた「凧」のごとくか
もう既に何曜日か、いや「子どもの日」であることも認識が薄くなってきた。10連休もいよいよ最終盤。ニュースは帰省や帰国ラッシュの模様を平然と報道する。外国の超高層階の「プールに入った」と云う子どもの成田空港でのインタビューが流される一方で、連休中も開設されている「子ども食堂」の様子、さらには中東の難民キャンプの子どもたちの苦難な生活が映し出される。その映像を幸福に便利に安易に自宅の居間で見ている、僕たちの今とは何か?宮崎大学に赴任して、いや非常勤講師時代や中高教員時代を含めて、ここまで「曜日」を忘れた時間を過ごしたのは初めてかもしれない。その特異性とともに、自己を見つめ直し短歌に向き合い、そして「今」は何か?などと繰り返し自問自答する。
冒頭には昨日に続き、伊藤一彦先生の短歌を掲載した。ある長年の親友に連絡すると、浜名湖に滞在し休日を満喫していると云う返信をもらった。思わず「浜松まつり」での砂丘「大凧あげ」が連想された。「大凧」ならぬが幼少の頃に、祖父と東京は荒川の土手で凧揚げをしたことがある。家の仕事の関係で特段に長い糸を所有していた祖父は、法外な距離までその凧を揚げてくれたと記憶する。その果てしなく空に舞い上がる姿に、自らも無限に大きく飛翔したいといった思いが、思考ではなく身体的に感得できた経験ではないかと今にして思う。幼少ながら「凧」に乗せられた僕の「今」は、「永遠」にまで「高くうちあがりゆく」と云う原初体験であった。などと回想し「10連休」の現在に戻ると、この期間自体が「凧」のようにも思えてきた。改元とは別次元で、僕たちの「今」はどのようにか「永遠」となのだろうか?ただ「過ぎにしを言ふな思ふな」があればこそである。
大空になぜ「凧」をうちあげるのか?
一本の糸が繋ぐ人の世の希望
「今」ただ「今」を笑顔で青空に向かって生きていたい。
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