詩のことば・わたしの言葉
2019-05-04
「言葉というのは、本来『わたし以外のだれか』が『わたし』の口を通して語るのを『わたし』が聴く、というそういう屈折した経験なわけですよね。」
(内田樹・池上六朗『身体の言い分』毎日文庫 2019年4月の一節P38より)
冒頭に記した1冊を読み始めた。2005年に刊行された「発見と驚きの〈身体論〉異色のロングセラー待望の文庫化」(帯文)である。〈身体論〉としては、文庫の背表紙に記されたように「腰痛も肩こりも悩める人生も、内なる身体の声を聞けばすべてうまくいく。」と自らの「身体」そのものを「ことば」を通じて見直したいという願望も強い。また「現代短歌・南の会」が5月1日に刊行した『梁』に僕自身として初めて、「牧水の耳」という〈身体論〉の短歌評論を執筆したことの時宜に適ったことも選書の大きな理由である。自らの発する「ことば」とは何か?その他者への作用と内的思考は、どのように結びついているのか?もとより「ことば」「文学」を「教育」の場に展開する「国語教師」を育てている身として、こうした問題を多角的に考えておく必要を日常的に強く感じる。
冒頭に記した内田樹氏の発言は、「今の子どもたちの話」は「語彙が貧困」なのではなく、「ヴォイスの貧困」なのだという指摘に始まる「コミニケーション」論の一節だ。「語り口」「話し方」を複数持ち、「同じコンテンツを違うモードで伝える」ことが大事であると云う。「自分自身の言葉に疑問をさしはさむ」ことで「自分の中で複数の声が輻輳していく」ことができる人が「チューニング能力が高い」ということになる。だが最近は「どんな場面でも、同じ顔、同じ声で押し通すことがよいこと」とされて「コミュニケーションについては支配的イデオロギー」になったと内田氏は指摘する。また『身体のダイアローグ』(太郎次郎社)にある谷川俊太郎氏のことばを引用し、「『わたしが、わたしが』と言いつのる詩はうるさい。逆に、言葉が、詩人の『わたし』から離れて自立している言葉というのは、言葉自身が静かで、響きがよいという」ことを例に挙げている。つまり「自分自身の口から出てくる言葉の『静けさ』を聴く修練」が必要だと内田氏は云う。「コミニュケーション」のみならず、「短歌のことば」を考えるにも、この「輻輳的な声」のある表現は実に大切であるように思われる。
身体作用が思考を和らげるも乱すことも
「ことば」そのものが自らを作り上げている
「静かで、響きがよい」ことばで生きていたい。
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