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尽日の鶯啼く音に思ひやる

2019-05-01
「濡れつつぞしひて折りつる
 年のうちに春はいくかもあらじと思へば」
 (在原業平)

初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の巻頭には、正岡子規の強烈な批判で有名にもなった「年内立春」の歌が置かれている。「年のうちに春は来にけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむ」(在原元方)である。まったくの「理屈」で「くだらぬ集」だと子規は、新しい時代の「短歌」を目指すために旧弊の聖典として攻撃の対象とした。明治以降の新しい時代でも通用する「詩」としての「短歌」が模索され、「私」を主体的に表現する所謂「近現代短歌」が創り続けられてもう150年近い年月が経過した。子規の発言の影響はその後も大きかったが、ようやくここ30年〜40年の間に『古今和歌集』も比較文学的な視点から再評価されて現在に至る。こうして考えると、単に「和歌・短歌」に関してだけでも、「明治・大正・昭和・平成」の時代の変遷を多様に解釈することができる。

前述した『古今集』巻頭歌と冒頭に記した業平の歌(『古今集』巻二春下巻軸から二首目)は、「年のうちに」の語句が共通している。暦月と節月(立春など)の齟齬について、平安時代から問題意識が持たれていたことがわかる。少なくとも「時の過ぎゆくことへの愛惜」という心情は、たぶんどの時代でも共通した人の心なのであろう。とすると現代では「元号」と「西暦」、さらには「元号」と「私」という関係性の齟齬や共通点を見出すべき時代となったようにも思う。もちろん巷間の喧騒はさて知らず、僕たち「短歌」に関わる人間には「節月」(季節観)も大変に重要であろう。「平成最後」の一日は、テレビの編成など「大晦日」さながらな印象を受けた。「暦」と「元号」、そして「(季)節」があって、もちろんかけがえのない「私」がある。その大切な「私」の要件があって、日南方面まで出掛けた。そこにある林の中からは、鶯の啼く音が穏やかに聞こえた。僕の経験的聞き耳の中でも、かなり上級な部類の「歌い方」であった。たぶん伴侶とする鶯がともにいて、自らの鳴き方を対話的に客観化した結果、上手に啼けているのであろう。「鶯」にも「主体的・対話的」な「私」が必要なのだ。

語ってこそ自らの立ち位置が見える
「元号」と「私」
あらゆるものは対象化しなければ真価はみえて来ないものである。


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