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単純化と恣意的な言葉

2019-04-22
「すごい」「しっかり」「感動した」
そしてまた自分しか定義のわからない語句
伝える「言語」に対する知性・感性の未熟

学生の言語生活に日常から接していると、職業柄その傾向で気になることが多い。最近は講義レビューや発言で「すごい」「しっかり」「感動した」の〈安易三役揃い踏み〉に出くわすことが大変多くなった。気に入ったことは「すごい」、先方を立てて自分がやるべきと思っていることは「しっかり」、賞讃すべきと思うものは「感動した」で文章やコメントを構成する。今「学生」と書いたが、これはスポーツ選手や政治家まで幅広い社会構成員の傾向と残念ながら言わざるを得ない。言葉が定型化するというのは思考の硬直化でもあり、印鑑が未だ全盛であるこの国の再生産文化に関係しているのかもしれない。コメントする際は、判で押したように前述の安易三役語句で対応すれば済む社会なってしまった。

僕たちはイチローさんなどの「超一流アスリート」が、前述の「安易」ではないことを明らかに知っている。自らの考え方が細やかで構造的であり、基礎基本からの積み上げがあるように重層的な生活態度がある。したがって語彙選択も、複雑かつわかりやすい。一方で社会を見回すと当人だけがわかっている特定の語彙で、他人に説明を施して「伝えた気」になっている輩が出現する傾向も最近は察知している。比喩のようで比喩として機能しない語彙、業界用語にしては恣意的な語彙、を平然と使用し相手がわかったと思い込んでいる。社会の安易さが「わかりやすさ」を求めているゆえ、そこに迎合しつつ当人の思い込みだけで第三者と対応する連中である。繰り返すが、「一流」は複雑かつわかりやすいのである。当人だけが納得する特異な語彙表現に自己陶酔していては、コミュニケーションは始まらない。

いずれも「安易」な思考に起因する
中身が何であれ、話の「フレーム」の取り方による
社会に出る前の学生たちに注意したい「言語あり得ない感覚」である。


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