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知性と感性の成熟

2019-04-16
「大学は何のためにあるのか?」
教員が学生が忘れてはならない問い
一つひとつの講義にいかに反映させるか・・・

内田樹『常識的で何か問題でも?反文学時代のマインドセット』(朝日新書2018年10月刊)を読んでいると即座に「今」、大学人として考えておくべき命題に出会う。雑誌『AERA』に2014年から2018年にかけて連載されたコラムの集成であるゆえ、ちょうど僕が大学専任として歩んで来た時代に書かれており、顧みて行先を照らす思考として貴重なヒントが得られる。何より大学人として意識しておくべきことをはじめ、行先の見えない時代をいかに生きるかを学ぶことができる。例えば「僕は『最悪の事態に備えること』と『リスクを過小評価しないこと』をとりあえず心がけています。そして、世の中の人たちのほとんどが『そういう話は聞きたくない』という態度でいるようなので、さぞや煩わしいとは思いますけれど、耳元で警鐘を乱打するということを自分に託されたミッションだと思っております。」という一節の姿勢のように貴重な切り口が満載である。

冒頭に記した命題も同書からの引用である。大学人として「最悪の事態」も考えながら、いかに生きて行くかを考えねばなるまい。そしてどのような困難な事態であっても、冒頭の命題を忘れてはならないということだ。その「解」は内田氏の文章では「次世代を担う若者たちの知性的・感性的な成熟を支援するため」とされている。続けて内田氏は「次世代を担う若者たちが十分な市民的成熟に達しなければ、集団は滅びる。だから、学校が存在する。そんな当たり前のことを声を大にして言わねばならないほど、わが国の教育行政は頽廃している。」としている。いかなる学部であってもいかなる学問を専攻しようとも、学生たちを「市民的成熟」に向けて支援する教育が「大学(学校)」では必要なのである。省みるに、「大学受験」という「手段」のみに集中することが高度な「教育」だと思い込んでいるような「高等学校」の現状、未成熟な「進路選択」のままに専門分野の学びを浴びせ掛ける「大学」という「現実」自体が、大変に「危うい」ということにもなるだろう。あらためて今年度から担当する「基礎教育科目」の重要性を、自らの「ミッション」としてその責務を痛感するのである。

「文学教育」が頽廃に向かうからこそ
「研究」と「教育」の表裏一体も求められる
「最悪の事態」とはいかなるものか、という想像力も問われている。


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