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「塞きとめる壁・断ち切る斧」形式のこと

2019-03-07
「形式はことばを流し込む容器ではない。
 われわれの日常語を塞きとめる壁、
 断ち切る斧なのである。」(佐佐木幸綱「短歌ひびきの説」より)

物事は発想の仕様で取り組み方が、大きく違うものと思う。「定型詩」などという用語で音数を「縛られる」感覚を持てば、なかなか自由で豊かな発想は表現できない。小中学校の〈教室〉で短歌創作の学習機会を参観することがあるが、まさに「ことばを流し込む」ごとく定まった音数に指折り数えてことばを当て嵌める光景に出会う。一首全体がことばの羅列になって、いかにも「詩」にならない「三十一文字」のように思えるのは、この「定型」と云う語彙による認識が邪魔をしているように思う。同時に小中学生らは、『百人一首』を音読しその「ひびき」を体感する学習もする。だがどうしてもこの両者が同線状の営為であるとは、児童生徒もましてや教師も思っていないようだ。

「短歌は〈しらべ〉ではなく〈ひびき〉である。」という趣旨を述べた佐佐木幸綱の評論を読むと、まさに「形式」と「韻律」の関係やその捉えておくべき姿勢を教えられる。〈ひびき〉はその歌が表現するイメージと不可分な関係にあり、三十一文字を「詩」として自立させる。冒頭の一節はその核心部分をしかも比喩的に述べており、短歌を考える際に衝撃の走る評論である。「塞きとめる壁、断ち切る斧」という刺激的で強烈な喩は、「定型」などという生半可な理屈で短歌を安易に納得してはいけないという意識を喚起させる。「詩」の自覚などと言えば、なかなか小中学校の学習では難しいかもしれないが、時に子どもたちの豊かで自由な感性が、野性味のある壁を打ち立て、小さいながら鋭い斧を振り下ろすこともある。それは皮肉にも「学習」という枠からはみ出た際に生じる、ある種の自然と和む「ひびき」のごときもののように思う。

文学を教えることの不自由
「詩歌」へ向き合う学び手の姿勢
音読・朗詠の意味を再考する意味でも。


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