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世代を語り継ぐー宮崎大学短歌会一月歌会

2019-01-25
「一年生になったら一年生になったらと歌う子供の顔が老人」
(穂村弘『水中翼船炎上中』より)
来週の牧水賞授賞式も視野に入れて

一月宮崎大学短歌会歌会、テーマは「恋・愛」。恋愛に限らず家族愛や向き合う相手への思いを詠んだ歌の詠草が提出された。恋はいつ始まり、いつ終わるのか?何をもって終わりとするのか?そして「恋に泣く」とはどんな状況なのだろう?いつの時代も人々の心には「恋」にまつわる思いが去来する。歌は相聞から発したとするならば、その基本として見据えておきたいテーマでもあろう。もちろん「恋」は叶うものとは限らない、「逢はで止みにし」恋もあり。独りよがりの恋や「思い過ごしも恋のうち」であろう。学生たちの対話の中でも「リア充」への抗いを素材としたものなども含みつつ、多様な「恋・愛」はいつの時代も、と感じさせられた。

来週31日(木)には若山牧水賞授賞式が開催され、宮崎に穂村弘さんがいらっしゃる。県主催の授賞式・祝賀会の後に地元短歌会主催のお祝いの会があり、宮大短歌会の学生も試験時期ながら数名が参加する。そこでこの日の歌会では、穂村さんの歌三首鑑賞をする担当者を設けた。当日のお祝いの席でも、学生代表として彼女がスピーチをする予定だ。冒頭に掲げたのは、その際に提起された一首。なぜ「子供の顔が老人」なのか?様々な読みが提案された。「一年生になったら一年生になったら」というのは、たぶん時代を超えて歌い継がれている新入学前の喜びの讃歌であろう。だが「顔が老人」とは、その歌唱のあり方と時代状況の交錯からやや否定的な要素が詠み込まれている。穂村さんと同世代の僕は、歌集の歌に喩えようのない郷愁めいた感情を覚える。この日の歌会で思ったのは、短歌を介せばその「昭和・平成」という時代を若い学生たちと共有できるということである。学生の歌の詠草にあった「助手席」には、チャイルドシートやシートベルトさえなかった時代の僕の父の車のことが脳裏を離れず、世代と時代を交錯させる読みに及んだ。

「それぞれの夜の終わりにセロファンを肛門に貼る少年少女」
(『水中翼船炎上中』「チャイムが違うような気がして」)
穂村さんご自身との対話が実に楽しみである。


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