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教材の再読と音声表眼への誤解

2019-01-24
教科書教材は1度読んで終わりか?
音声表現することは成果ではなく過程
解釈・批評・編集から表現をしてテクストへ帰る

定番教材が定番教材足り得る理由は何であろうか?中学校2年生の教科書に掲載されている『走れメロス』は、既に50年以上の長きにわたる教材としての歴史を持つ。世相の変化とともに中学生の受け止め方も多様であろうが、3世代近くに及び「定番」であることをあらためて考えてみる必要もあろう。もとより教材とは、学習する際に一度読んで終わりなのだろうか?否、年齢とともに再読することで初めて「読書」として位置付けられるものと考えたい。ゆえにあらためて高校入試などが近づく中学校3年生で学ぶ意義もあろうかと思う。「葛藤」「自己変革」「信実」などのテーマ性を、いかに自らの「生きる」と重ね合わせるか。箱根駅伝の映像の背後で若い女性が『メロス』を朗読するCMがあった気がするが、そのマッチングから新たな読みさえも予感させるものであった。その映像はもちろん「二次創作」であるが、音声表現とリアルな映像との交響・交錯が織り成すものに、「人の世の歩み」を深く感じさせた。

〈教室〉で朗読・群読・群読劇を実践するにあたり、大きな誤解が横行しているように思う。解釈や批評が高度に成されていないと、こうした音声表現は「できない」という誤解である。この考え方を突き詰めると、初読の際にも「音読」は不可能となってしまう。古文などはいつまで経っても音声表現化はできない。ちょうど古典学習で「〈古典文法〉を知らないと解釈はできない」という教師側の傲慢な思い込みから「古典嫌い」の学習者を多く”養成”している悪循環に似ている。されば、教材テクストはどこへ行ってしまうのだろうか?知識偏重で「教える」ことのできる権威的立場の指導者こそが、「国語」をつまらなく嫌悪されるものにしている訳である。学習そのものには円環性があり、「読む→解釈→批評→編集→表現」を一方通行ではなく常に振り返り、縦横無尽な相互通行をもって行うことで「主体的・対話的で深い」はようやく保証されるのではないか。指導者の思い込みや偏向を矯正することこそ、喫緊の課題でもあるように思われる。

語り手の変容と自由間接話法
『走れメロス』を〈声〉で読むこと
現場での音声表現を考えて既に16年が経過する。


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