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感動と叫べば「感動」はなし

2019-01-04
アナウンサーの叫ぶごとき実況
テレビから流れ出る声が苦痛に
「感動」は各自のこころのなかに宿るもの

正月となれば、スポーツ競技の中継も花盛りだ。特に目立つものはサッカー・ラグビー・駅伝であろうか。新年となって平成の回顧を意識しているが、平成初頭の頃の僕は正月といえば「全国高校サッカー選手権大会」に明け暮れる日々であった。初任校が最多優勝を誇る強豪校で、僕が在任中も優勝1回準優勝2回を経験している。自ずと正月は毎日のようにサッカー応援の日々、決勝は当時8日に国立競技場で開催されていたゆえ、始業式は臨時的措置で10日に遅らせることが常なる学校であった。そのサッカーの実況の多くが南米式を見習ってのことか、例えば「ゴール!!!」を執拗に連呼したり、決定的な場面での「絶叫系」のアナウンスが横行している。それは今も変わらないであろう。もし「ニュース」であれば、とてつもないことが起きてしまったような過剰すぎる喧騒を、その実況に聞き取ってしまうのは僕だけであろうか。

その実況のあり方が、箱根駅伝において「感動すべき場面ではない」といった観点からSNS上で物議を醸している。スタート直後に転倒した選手が足を痛めながら襷をつないだことについて、「感動」を強要するような実況が繰り返されたと云うのだ。正直なところ、僕自身はもともと中継そのものの実況のあり方に嫌悪感があったので、この場面の実況を聞いていない。だが、Web上の記事では箱根出場経験のある著名な選手が、「感動する場面ではない」と転倒した学生の選手生命などを懸念する発言をしたと云う。「襷をつなぐ」いわば「大学の名誉」の為の自己犠牲、その姿を美談として祀り上げて「感動的場面」だと視聴者に伝える。足の怪我の状態を深く実感できる人にとっては、痛々しさのみが感じられる苦痛な時間であろう。「全体」の名誉を守る為に「個人」の身体を犠牲にする美徳という構図が、ここに仕立て上げられる。もちろん、当事者にとってみれば拙論も勝手な物言いに過ぎないだろう。だが、明らかに報道の現在が偏向していることを自覚する冷静さが、今こそ求められるとは言っておきたい。

「感動」という語彙を使わないのが真の感動
スポーツはファンの次元が育てるとも
東京五輪に向けて考えておきたい心性である。



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