「牧水が愛したふるさと」トークイベントin延岡
2018-12-10
2020国民文化祭・障害者芸術文化祭みやざきプレイベント第二のふるさと延岡で女性歌人たちが語る牧水
旅と恋と愛と家族と
先週末から3日間で九州内800Kmほどの移動距離をこなした。金曜日朝から佐賀へ出張、一夜明けて土曜日に宮崎へ戻り、本学附属図書館にて「地域定着推進」を旨とする担当科目対面講義を3コマ。講義内容からして牧水の短歌から「ふるさとみやざき」を考えるものとしたが、さらに日曜になって標題のトークイベントを拝聴しに県北・延岡まで赴いた。よって土日の小欄は休ませていただいた。外に出るとわかる「ふるさと」のありがたさ。対面講義で学生たちと、そして豪華女性歌人のみなさんのトークで、「みやざき」を考える機会ともなった。
「おもひやるかのうす青き峡(かひ)のおくにわれのうまれし朝のさびしさ」(『路上』)
文学を志し東京に出た牧水が、常に意識していた「ふるさと」東郷町坪谷「青き峡のおく」。誰しも「ふるさと」はあるのだが、個々にその記憶・感覚は違うものである。栗木京子さんは、上記の歌から「命の根源に見るさびしさ」があると語る。人は独りで生まれ、独りで去り逝く、その無常な人生のあり様を見つめる牧水。ただ場所や物質的な「ふるさと」ではなく、こころの来し方行く末を見つめる「ふるさと」の普遍性。小島ゆかりさんは、「さびしさの原形の孤独」と表現された。
「母恋しかかる夕べのふるさとの桜咲くらむ山の姿よ」(『海の聲』)
「家族」があってこその「ふるさと」、初句切れのよい歌も多いと小島ゆかりさん。家族のいる場所を「ふるさと」と思うものであるが、牧水は「家族を超えて受け止める」スケールの大きさを読むのは俵万智さん。そしてやはり「ふるさと」に抱く大きな感情は、やはり「母」ということになろう。
「われを恨み罵りしはてに噤みたる母のくちもとにひとつの歯もなき」(『みなかみ』)
自然な母親への気持ちがあり、愛情深く強い人である母への憧憬も読めると米川千嘉子さん。「人間の精神の複雑な痛み」まさに誰しもが経験する親子関係の複雑さ・微妙さ。親は子に、子は親に、何でも言える安心感の大切さ。「母とは冷静さを失う過剰なもの、ゆえに子育てもできる」と小島ゆかりさん。
「着換すと吾子を裸体(はだか)に朝床に立たせてしばし撫で讃ふるも」(『朝の歌』)
牧水が家族を詠んだ歌、大口玲子さんは「子どもがただいればいい、子育ての原点」を詠んだ歌と評する。しかし「子煩悩だけど育メンではない」と俵万智さん。妻や子に対して「愛とは自分が変われること」と普遍的な大口さんの指摘も印象深かった。
標題トークで気になったところを断片的に覚書とした。トーク前の伊藤一彦先生の講演では、「牧水には四つのふるさとがあった」と指摘された。一つは生まれ育った「坪谷(日向市東郷町)」、二つ目に多感な10代を過ごした「延岡」、三つ目は晩年の8年間を暮らした「沼津」、そして四つ目は「旅先すべて」であると。接する人々すべてに親しみや愛情を覚え、眼前の人すべてに「ふるさと」を見出す、まさに牧水は「インターナショナル」な人物であったと評された。女性歌人のトークから補足するならば、四つ目は「妻・喜志子」とも。もちろん三つ目の「沼津」と「喜志子」が重なる部分もあろう。人生という旅をともに歩き、歌人・牧水があるのは、紛れもなく「喜志子」の愛情の賜物である。
土曜日の対面講義で学生たちとも語り合った
「ふるさと」とは何か?
時代や世代を超えて、人が生きる上での根源が「ふるさと」なのだろう。
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