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短歌オペラ「若山牧水 海の声」東京公演

2018-12-01
「世界初」短歌オペラ
『牧水の恋』が五線譜に乗って
「形式」の中にある音楽再発見

「世界初」と各メディアでも紹介された短歌オペラ「若山牧水 海の声」東京公演が開催された。「牧水祭」前日9月16日には、宮崎県日向市で上演されてから2ヶ月半が経過する。日向公演ではただただ、そのことばの抒情性から受ける「恋と苦悩と愛と」がこころに響きわたったが、今回の東京公演で昼夜2回とも鑑賞できて、また新たな発見が多かった。その一つが短歌の句ごとの「リフレイン」である。もとより「短歌は声」だとするならば、創作主体から読み上げられた「声」が、「読み手」の中で今一度響くという発信受信関係があるのではないだろうか。その双方向対話性を、オペラは舞台上で具現化する営為であるように思われた。もちろん個々の歌は愛する人への強い思いを起点にして、眼に見える具体的な景物に託して発せられる。「この思い」を表現するには、この「音楽(韻律)」しかないという「ことばの発せられ方」が「短歌」ではないのか。

例えば、著名な「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」では、「白鳥は」の初句と「哀しからずや」は二句が断絶することなく、また句内での「韻律的表現」が途切れることもなく歌(詠)われる。敢えて言うならば「白鳥は」の後に、小さな「休拍」が僅かに生じるのみである。だが、結句の「染まずただよふ」となると、「染まず」はむしろ「空の青海のあをにも(染まず)」と接続し、「ただよふ」の四音のみが最後に独立して響くように思われる。今回のオペラの編曲構成上でもそのようになっており、「五七五七七」各句ごとに分断していては短歌の本質的な響きに乗った意味は捉えることができないのではなかとさえ考えた。この韻律上の「分断」と「連鎖」との微妙な緊張感が、近現代短歌の中で牧水や啄木の時代に錬磨されることで、平明な表現の中にもそれだけでないこころの奥行を表現できるようになったのではないかなどと考えている。こうした意味では今回のオペラを一つの短歌享受芸術作品と見るならば、その「編曲構成」と「ことば」との関係性を精査してみる必要があるようにも思う。

僕自身の出身幼稚園の園長先生も来場
大学の先輩ご夫妻とともに和歌的知見による受け止め方も
宮崎と東京、牧水が常に意識した「故郷」を僕はいま反転させて体験している。


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