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古典は多面的に読もう

2018-11-23
「共感するか、共感しないか」
「わかりやすさ」の病理
「生きる」ことは割り切れないものでは・・・

後期の講義も5回三分の一を経過した。非常勤講師時代以来、「国文学演習」を久しぶりに担当して『枕草子』を教材としている。毎回の学生たちの発表内容と、発表のそのものに含み込む「活動」(聴く側の学生が何らかのテーマについて話し合い対話的に議論できる状況を創る)がなかなか面白い。発表者は自らの発表を押し付けるのではなく、講義クラスの級友たちとともに『枕草子』の自分たちなりの「読み」を創造的に発見していくことになる。よって担当章段におけるテーマ性や対話項目を設定し、問題・課題意識を明確にして発表することを求めている。受講者との協働性は現在の教育方法として重要であるが、単線的な「発表」→「質問」→「答え」→「(担当者)講評」に終わらない、全員参加の対話性が演習には必要であろう。

こうした演習の「課題設定」において、冒頭に記したように「共感するか、共感しないか」といった二項対立式を提示する学生が多いのも事実である。「・・民営化に賛成か反対か」以降、TV番組のバラエティーなどでの問い掛けの多くは「⚪︎」か「×」かとなっており、幼少の頃からその判別意識に侵されているのではないだろうか。現在の政治、本来は高尚であるはずの場面でも、「その指摘は当たらない」といった、理由も示さない「二項対立」意識が蔓延っている。まだ「二項対立」ならまだしも、「一元論」の思考に逆行しているかのようにさえ思う。「国語」では少なくとも多様性多面性の思考力・想像力を育むべきとは、指導要領にも提示されている。「清少納言は面白いが、友だちにはなれない。」その「なれない」の内実は何か?「鼻につく」というのは「存在感がある」こと、社会の中の人間関係の機微を深く考える契機になるはずだ。などと、この日の演習を締め括った。

「文学」は簡単には「わからない」
「わかりやすさ」を求めて、安易で低級なものが跳梁跋扈する
生きることそのものが多面的であるはずなのだが。


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