初任者のあの頃と「自由な在野」
2018-11-14
「魂を占領されゐし哀しみの遥けくて今ー自由な在野(フリー・ランス)」(春日井健『夢の法則』より)
夢中である時と自由と・・・
無我夢中であることには、遥けくして気づくものである。その時には自覚がないからこその「無我」であり、熱が冷めやがて目覚め「夢中」であったと悟る。『日本国語大辞典第二版』を引くと、「ある物事に熱中して、自分を忘れること。一つのことに心を奪われて我を忘れてしまうこと。」とあり、1896年の樋口一葉「われから」の用例が筆頭に載る。「我」とあるからして明治以降の「自我」の意識が盛んに意識された頃からの四字漢語であろう。はてまた組織などの外圧があって自らの「魂」が「占領されゐし」という状態、冒頭に記した春日井健の一首の表現はそんな過去の自らの状態を「哀しみ」と表現している。「今」の自分が「自由な在野」にいることをしばらく経ってから自覚し、過去の自分への哀感を語り出す。「無我夢中」は「夢」のイメージからして良い状態に思えるが、拘束されひと所で自由なき境遇という場合もあるのだ。
誰しも「哀しみ」を伴う若かりし日の記憶があるだろう。この日は附属中学校の課題別研修で教員初任者を対象とした「小説授業の教材研究の深化と表現学習の可能性」と題して講師を担当した。初任者の素朴な疑問や不安を聞いて、附属の先生方ともども「あの頃は」という哀感が心の中で鳴動した。思い返せば初任者で教壇に立った時の担当が高校3年生で、1ヶ月もするとほとんど授業になどなってはいなかったと回想する。ただただ大学で「文学」を学んだという矜恃だけで、押し切れると思い込んでいた無我夢中。スポーツ関係で初任校を選んで入学してきた生徒たちにとっては、単に「うるさい」だけであったようである。今こうして教員養成などに携わっている身としては誠に「哀しみ」の記憶である。だがその時の無我夢中があってこそ、自らの「文学」への情熱を再起動させることもでき、国語教育も研究しようという意欲となった。すると「一つの学校」という檻の中から解放されて生きたくなってしまった。初任者との対話を通してあらためて「遥けくて今ー自由な在野」の自覚が起ち上がる。
勤務時間や熱心さあるべしに「占領されゐし」
「哀しみ」や苦味があってこそ人生は飛躍する
お前の「自由な在野」はどこだ〜!!!
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