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「刺し貫く」短歌ー「逆光」に目を瞑るわたしたち

2018-11-10
「醫師は安樂死を語れども逆光の自轉車屋の宙吊りの自轉車」
(塚本邦雄『綠色研究』より)
「短歌が現代社会で」考

先週ご本人とゆっくりお話できたことを契機に、島内景二氏著『塚本邦雄』(コレクション日本歌人選19 笠間書院2011)に執心した。今まで塚本邦雄をあまりにも表面的に擦る程度にしか読んでいなかったのだと、己の浅はかさを恥じた。同時に研究者(特に古典分野の)が近現代短歌を扱うにはどんな立ち位置があるか、という疑問にも新たな光明を与えていただいたような気持ちである。現代短歌が現代社会で意味を持つのは、おそらくは塚本邦雄なくしてなし得ていないのではないかと思う。塚本の徹底した多様な姿勢を、その後の歌人たちが継承し初めて現代短歌が樹立しているかのようである。塚本の痛烈な批評精神と古典に根ざした教養の奥行。島内氏が前掲書の締め括りたる50首目の鑑賞冒頭に記しているが、「現代短歌が現代社会でどのような力を発揮できるか」を塚本の歌を通じて考えてきたと云う。これは現在、「現代短歌」を「古典和歌」などに置き換えて、僕ら研究者が退路を絶って考えねばならない命題であろう。

巷間の人々は、安易にも「光る物」に群れ集(たか)る。Webで話題となれば「口コミ」などと称して食物店に行列ができる。果たして自らの味覚に、どれだけの繊細さがあるというのか?確かとも思えない「健康」への「配慮らしき」慣習を、「ダイエット」の名の下に敢行しむしろ身体を衰弱させてしまう。今回の米国大統領選でも話題になったが、「フェイクニュース」と称される「嘘」を社会的立場のある者が平然と垂れ流す。「嘘」と分かっていても、人々はその内容に煽られて「選挙」などで志向を変えてしまう。こう考えると実質的なものより、たとえ「嘘」であってもいかに陰謀的に真実に見える「光」を放つように仕組めば、その「メッキ」の光に乗じて人々がコントロールされてしまうわけである。冒頭の歌に対して島内氏も「だが死に『安楽』などがあるのか。」と塚本の歌の現代文明への批判を鋭く読み解く。塚本を「逆光の人」「逆光の歌」だとして、「現代文明の病理を告発」するのだと声高に訴える。わたしたちは、あまりにも写真で撮影したら顔が真っ黒で見えない対象を安易に讃え愚かな行列を作っている。「宙吊りの自轉車」となって物事を見つめよ、塚本の時代よりもさらに陰湿化した現代文明を「刺し貫く」決意を僕たちは持つべきであろう。

「現実世界と戦う」ということ
「正字正仮名」の貫徹と
古典研究者なれば塚本を読むべし


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