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窒息せぬよう外の空気を

2018-11-05
「翻訳に育てられた」と村上春樹氏
「日本文学だけでは窒息していた」とも
内輪でよかれと思い込んでいても・・・

世界的な作家ともいえる村上春樹氏が、母校・早稲田大学に自身の草稿や資料類を寄贈するというニュースを見た。作品が出るたびに話題を呼んだ一時期のブームは去った感があるが、それだけに既に研究対象としてあれこれ論じられることも多く、現代文学の研究者としては誠に貴重な資料となる。その村上氏がニュース内のインタビューで、冒頭のような発言をしていた。だいたいにして村上氏がインタビューで話すこと自体が、かなり久しぶりの機会であると云う。そうした作家的で偏屈でこだわりのある素行を見るからに、ゆえに村上ありといった思いを新たにする。発言一つが凡人ではない、と思われるのが一流の表現者であろう。「日本文学だけでは窒息していた」という発言の内実は、凡人たる僕などでも創作をする姿勢に大きなヒントであるように思った。

日常生活でも研究でも創作でも、偏れば「窒息」するのであろう。「よかれ」と思った行動を突き詰めていくと、それは無意識の行動となり「こだわり」と呼ばれ習慣となってその網の目に絡め取られて離れられなくなる。その束縛が自己をむしろ苦しめて、拘束され閉塞した視点しか持てなくなる。村上氏の場合は、数多くの翻訳を手がけることによって、反転し解放され束縛から逃れて自由な表現をすることができたのであろう。もちろん、こんな単純な物言いで語り尽くせるものではないのは承知である。だが凡人は「窒息」を「窒息」とも思わず、頑なに息絶え絶えで活動を続けていたりはしないかと思うのである。身体も力んで気張れば、各所に悪影響を及ぼすことになる。どこかに「痛み」が伴う前に気づかねばならず、もっと自由に自己を解放する必要性を覚えるのである。

「多視点」で多様であること
硬直した身体を解き放ち柔らかに考える
「翻訳」のような反作用のあるものを大切にしないと・・・


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