国文学者はいかに生きるか?
2018-11-03
人文学軽視の世情にありながら国文学者はいかに生きるか?
ある先生との出逢いに大きなヒントが
11月1日は「古典の日」ではあるが、メディアも世間でもほとんど意識されることはない。僕の自家用車のナビゲーションは、毎日最初に起動した際に「今日は・・・の日です。」と告げるのだが、7月6日の「サラダ記念日」は告げるが、11月1日の「古典の日」を告げることはない。抑もなぜ「古典の日」なのかと言うと、『紫式部日記』の中で『源氏物語』の存在が確認できる日付なのであるが、「記念日」として人口に膾炙する理由としては薄いということなのだろうか。いずれにしても「古典の日」を意識するのは、まさに「国文学者」の部類に入る者だけであるような悲しい状況である。さらに言えば、昨今は「文化的」な意味を意識する祝日なども少なくなり、むしろ「ハロウィン」狂騒曲などが喧しい。
東京からいらしたある国文学者の先生と再会した。先生は『源氏物語』の研究者であるが、同時に近現代短歌に関する評者としても多くの業績を持つ。そのお仕事から学ぶことは多いが、「近現代」と言われる中にも必ず「古典性」が発見できるという鋭い姿勢を見習いたいと常々思っている。反転して述べるならば、現代に古典を生きたものにする継承者であるように思う。少なくとも牧水を始めとする明治の歌人たちは、現在以上に「古典」への意識が高かったのは確かであろう。となれば、現在の薄れた考え方では牧水の歌をも読めないということになる。「文学」とは元来、それまでにある威光を踏まえて表現するという作用があるものだ。初めて読んだものにも、「どこかで出逢ったことがある」ものを想起する懐旧の念が湧くのは、そういうことである。人も決して「今」を一人で生きているわけではない。自らが存在するのは、数多くの先祖の生きたことばがあったゆえである。
そしてまた近現代の陰にある歌人に
光を当てるお仕事も尊いものがある
国文学者は個々にそれなりの個性をもって生きていくべきと教わるのである。
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