古典の危機的「発信」を考える
2018-10-21
文学・文化・文化財社会にいかに「発信」するか
こうした分野を大切にしない国は・・・
中古文学会秋季大会は、岡山のノートルダム清心女子大学で開催されている。午前中は大会共催企画で市内の林原美術館特別展「王朝文学への憧れー歌・物語に染まる、もののあはれ」を展観した。旧岡山藩主・池田家に伝わる豊富で保存状態のよい和歌資料の数々は、誠に見応えがあった。地域の政を司る藩主がいかに王朝文学に憧れを抱き、和歌などの文学を大切にしていたかが思い知られ、時折熱い思いがこみ上げてきた。初代光政・二代綱政・三代継政らが自ら書写した写本、藩の政とともに、いかなる思いで和歌の一字一句を書き写したのか。江戸時代の文化水準の高さがひしひしと伝わって来た。その藩政の影響か、岡山の街を歩くと150年が経過した今も文化の香りがする上品さが漂うかのようである。
こんな思いを抱きながら、午後のシンポジウムへ。テーマは「古典をいかに『発信』するか」である。江戸時代と比べると様々な点で社会そのものの利便性が高まったが、それだけに為政者も一般庶民も「文化」への眼差しが褪せたような気になる。今後、文化財や書誌学的な分野をどう護っていくのか?社会そのものの価値が問われているといっても過言ではない。シンポで一番
気になったテーマは大学での講義などでいかに学生たちに「和歌を『近づける』」かという話題。パネリストの報告の後、自らの問題意識で質問にも立った。私見をあらためて覚書しておくならば、学生たちにとって「和歌・短歌」は決して「遠い」存在ではないということ。SNSなどでの短いコメントを大変好む実情がある。むしろ我々研究者が「和歌は高尚なもの」と捉え過ぎて、学生たちの生の「ことば」を押さえ込んでいないだろうか?高等学校などで「古典嫌い」を醸成してしまう実情も、やはり教師自身の「文化発信力」の未熟さが作用しているような気がしてならない。
懇親会では小欄をお読みいただいているという声も
みんなで「古典」を我らが手に取り戻すのだ
社会の潮流に抗うことこそ「文学」の生きる道なのだろう
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