「時代」は川の流れのように
2018-10-12
時代は何で始まり何で終わるのか?区切られると同時に常に流れゆくもの
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
後期が始まって2回目の講義、初回は「授業ガイダンス」のような内容で講義の要点と問題意識の提示に終わった。今週から本格的な内容に入るのだが、特に「国文学史Ⅲ」を展開するにあたり一つの考え方を提示したくなった。「時代」とは何によって区切られるのか?ということである。今年は何かにつけて、「平成最後の」と語られることも多い。僕にとっては人生2度目の改元、学生にとっては初めての経験となる。少なくとも「昭和生まれ」の人々にとっては、3つの元号を跨いで人生を歩むことになる。僕自身の祖母などが「明治・大正・昭和」を跨いだ人生だったのだと子どもの頃に感じた際には、誠に歴史の上を生きているようだというある種の感慨を持った。今後は多くの昭和生まれの人々もまた、歴史を跨いで生きることになる。
だが果たして、改元によって何が変わるのだろうか?歴史はいつも川の流れのようであり、「いまここ」にあるものが絶えず継続して流れて行くのが必然である。国文学史を「中世」から講ずる際にも、やはり平安朝の和歌の流れを忘れることはできない。先日の和歌文学会大会の講演で『平家物語』と『新古今和歌集』を並立したものとして捉える視点(小欄2018年10月7日付記事参照)に、あらためて啓発された。「中世的無常観」の上に成り立つ『平家物語』の文体・表現は、和歌的(語り的)要素と文字表現(読み本系)の要素が相互扶助する形で、作品として成長したと云う。いわば「平安朝和歌」という大河の流れは、止まることなく中世以降も流れているのである。社会体制が変わって断絶するものもあるが、決して途切れることなく継続する力がある。日本文学史を通底して観ようとするとき、決して忘れられないのが「歌」の潮流ということである。
1300年の流れの上に身を置く
「いまここ」を見定めるためにも
「時代」を生きる意識を持つべき節目がやって来ているのだろうか・・・
- 関連記事
-
- 予定調和な『ごんぎつね』の話し合いのこと (2020/11/27)
- 文学はわかりやすいものか? (2020/10/09)
- 語り手は事実を語っているわけではない (2020/09/12)
- 重ねて調和するゆえに平和なり (2019/11/08)
- 「遠くから来た先生」和歌文学会例会・新年会 (2019/01/13)
- 国文学者はいかに生きるか? (2018/11/03)
- 古典の危機的「発信」を考える (2018/10/21)
- 「時代」は川の流れのように (2018/10/12)
- 「語り本系」と「読み本系」の交響曲 (2018/10/07)
- 「中古文学」とは?を問い続けて (2018/05/27)
- 万葉仮名「孤悲」の表記に思う (2018/04/29)
- 「人は正しさに説得されない」ー底まで行った人に (2018/02/26)
- 平安時代文学・文化における「音声」と「書記」 (2017/10/29)
- 「からくれなゐにみずくくるとは」よみの歴史を遡及する (2017/07/16)
- 面白く読もう古典文学 (2017/05/29)
スポンサーサイト
tag :