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仏に現れていただく

2018-10-11
円空の仏を彫る際の思い
十二万体の素朴な仏像
「よむ」とは「隠れているものを現す」こと

卒論などを指導する際に、いつも比喩として学生に話すことがある。それは木彫りの仏像などのことで、「最初から細かな目鼻立ちからは彫らないだろう」という疑問を投げ掛けるようにしている。大まかな全体像を形作って行き、次第に細部を彫刻していくはずであるという具合に。往々にして学生が卒論を進める際には、序論や研究の動機などであれこれ詮索し過ぎて、一番時間をかけるべき本体の内容を進める時間が不足してしまうことがある。そんな折に、この比喩はなかなか有効に働く。何事もそうであるが、一気に細部までが整う訳ではない。むしろ細部は積み重ねによって「自然に現れる」のが理想であろう。

「よむ」という語には元来「向こうにあるもの、隠れているものを現す」と「声に出して唱える、神に祈る」という意味があると、再読した佐佐木幸綱『万葉集のわれ』(角川選書2007)に教わった。この前者の意味を捉えて、佐佐木は「円空」が仏を彫る際の心得について言及している。それは「仏に現れていただく」というもの。江戸時代の僧侶で諸国を遍歴した円空は、鉈(なた)彫りによる素朴な仏像を各地に残した。仏は「向こうに隠れて」いるだけで、それを彫刻によって現すというのである。どうやら古代の短歌も同様な発想で考えられていたようで、表現と人間との関係を考える上で興味深い。「よむ」のもう一方の意味である「声に出して唱える、神に祈る」に関しても、僕としては同根の意味に思える。「文字」では隠れてしまっている「音」を発することで、「見えない神に祈り」、あって欲しいものを引き寄せるわけである。などと考えて、短歌が「真実」を描き出すことの偉大さに思いを致すのである。

日常でないことばによって
隠れたものを「現す」ちから
ことばなくして人は何も知り得ず、何も祈ることさえできないのだ。


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