「猛烈な」真実を見定める
2018-10-01
メディアが伝える「猛烈な」雨風をどう読んで備えるか?
真実は何かと見定めるのは自分
台風24号が宮崎県の東の海上を北上し、県内は激しい風雨に見舞われた。すべての雨戸を閉め切り戸外にある物は中に入れて、食料や水を確保しつつスマホの充電やラジオ付懐中電灯の電池が切れていないかと確認。自宅車庫の車は念のため、近隣の施設の小高い場所にある駐車場に移動させた。午前中を中心に風雨は強まり、雨戸を叩く雨の音が激しくなる。自宅前の道路も側溝から水が吹き上げるようになり、次第に道路は水の流れが見られるようになる。高台の土地ながら宅地造成上の区画によって、T字形の角地は水が滞留するということであろう。自らの生活する土地の性質を理解することが、こうした自然への向き合い方として求められるように思う。
一方で災害情報の取得先としてTVを流していると、けたたましく「猛烈な」などという語彙が乱発される。地方版放送で具体的な川の水位情報などを見るのは、大きな意義を感じる。だが全国版で「宮崎県」の状況が「猛烈な風雨で・・・」と語られるのには、幾分かの違和感を覚える。確かに風による被害や道路の冠水など、大変な状況に見舞われた人や場所があるのは確かである。だが、それを「宮崎県」の情報として流す時、他の地域に住む人たちは、まさに僕自身が「猛烈な」風雨に曝されているのではと心配の度合が大きくなる。現に北海道在住の親友からは、深く心配するメールが届いた。こうして個人としては、メールやSNSを活用し眼の前の「真実」を個別に親戚・友人たちに知らせる必要があろう。県全体ましてや国全体が「猛烈な」で一絡げに語られる違和感を、僕たちは注意深く拒む必要がある。
自然に向き合う生身の「個」
「真実」や「事実」という語彙が揺らぐ時代
今や理性ある沖縄の民意にのみ光が見出されるようだ。
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