届くようで届かない背伸び
2018-09-20
学ぶ者を背伸びさせる〈話す 聞く〉〈書く〉〈読む〉を配する
そして「授業」とは何か?と考える
7月に担当した附属中学校3年生を対象とした「大学で学ぼう」、その講義の振り返りワークショップを行う機会に恵まれた。提示した「心得の条」は冒頭に記した3か条、附属の中学生に限らず大学生を対象とする講義でも同様に必要な条件ではないかと考えている。まずは学習者には、「今の自分の力では解決できない課題」であることを意識してもらう。所謂「背伸び」をさせて動機付けをするのだが、決して「届かない」無謀な「背伸び」であってはならない。往々にして研究者は、学習者が「物事を知るか知らないか」を問題にするが、「できるできない」という「現在の力」に注目すべきと思う。せっかく「附属」と冠する学校で学ぶからには、大学の専門性の素晴らしさに気づいてもらいたいと願う。
大学は「講義」という形式を主に明治以降に採って来た。もちろんその効用もあるので、利点を活かしつつ学習者が三領域をフル動員できる方法で進めることが第二番目の心得である。「説明すれば分かるはずだ」は、特に大学教員の傲慢な思い込みではないかと考えている。〈聞く〉には必ず〈話す〉が伴い、相互作用によって初めて「理解」に落ちて行く。同様に〈読む〉だけでは内容は十分に咀嚼できず、課題を〈書く〉ことそのものが言語の組み立て作用によって理解を促すものである。最近は概ねこれを「主体的・対話的」と呼ぶようになった。最後に、本学部は「教育学部」であることの意義を学習者に察知してもらうことが重要。「講義」を受け終えたらその手段・方法そのものが、どのように機能したかと外側から理解し、「教科教育(国語教育)とは何か?」という問題意識が芽生えるようにする。要は自らの講義が「教育法」として「見本」とならなくてはならないと思っている。まさに日常で大学生を対象とした場合、ここが重要である。「授業」で内容が響かない「授業」から、「授業方法」は学べないと思うゆえである。
人は「説明」では心を動かさない。(説得されない)
説明的な短歌・説明的な落語
これほどつまらないものはない。
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