書くことから語ることの復権
2018-09-07
「ある日の事でございます。お釈迦様は極楽の蓮池のふちを、
独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。」
(芥川龍之介『蜘蛛の糸』冒頭より)
著名な芥川の短編『蜘蛛の糸』の冒頭を掲げた。「書かれた散文」ながら調子のよい名文の例として、講義・講演などで引用して利用することが多い。「書かれた散文」と今書いたのは、「口頭性もなく韻律性もない(はず)」であるという前提でありながら、そのいずれの要素も持っているという逆説的な文体だと思っているからである。句読点に無駄や過剰もなく呼吸通りに音読でき、七五調を基調とした「拍」に乗っているような文体ゆえである。太宰治も口述筆記という創作過程がよく取り沙汰されるが、やはり音読するのに適した文体であると考えたい。読者に伝わる際には「文字表現」であるのは自明でありながら、文体が口頭表現(音読)に適しているという特長はまさに「時代」に根ざしたものなのであろうか。最近の作家の文体は、背後に「キーボード」の影が見えるような気がするものも増えている。
小欄そのものの存在がそうであるように、「書くこと」には大きな価値がある。たとえ多くの方に読まれる、所謂「アクセス数」などはまったく度外視して、「自らの今日のため」に「書きたい」わけである。などと考えると、同時に「話すこと」も大変に重要だということだ。相手を問わず「自らの今」を話してみる。そのこと自体が「自己存在」の確認にもなり、独善的にならないための第一歩であろう。眼の前の相手がどのような気持ちでその発言をしているか?「人が人たる」会話というのは、まずこれが考えられるか否かということが肝要だ。最近はスマホの普及と日常性の向上から、主にLINEの使用率が高くなっているようだ。僕などは「メール世代」であるのか、なかなか踏み出せなかったが、学生たちに教わって昨年末からはLINEの使用率が高まった。「メール」では、どうしても「書きことば」になりがちであるが、「口頭性」の高いLINEでは、むしろ長くなる文体は避けるべきなのであろう。相手と「文章を交わす」というより、「会話をした」という感覚が残る。となればむしろ冒頭に記したような、散文における「口頭性」「韻文性」が復権するかもしれない、などとことばに関する研究者としては期待してしまう。まずは自らが「口語韻文」LINEを心がけてみようかなどと思うのである。
話すこと聞くこと
その有効性はなかなか学校では学べない
日常ツールになったSNSが文体を創り発見があることを利用すべきかもしれない。
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