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落語という声の文化と国語教育の罪

2018-08-29

表情・間・呼吸・眼遣い
盲いた人物を描いてこその名演
そして懇親会で衝撃の国語教育の罪が・・・

親友の落語家・金原亭馬治師匠が、上野鈴本演芸場で今月下席の主任を相勤めている。真打となって3年、益々芸に磨きが掛かって来て平日の夜ながら来場者も上々な印象であった。それにしても来るたびに感じるのだが、この「寄席」という空間は国語教育で意識すべき題材の宝庫といってもよいだろう。少なくとも「授業」「研究発表」や「講演」など、人前でプロとして喋る職業の人は、この場を体験していないことがあまりにも惜しまれる。ある意味での自己投資だと思って、無理をしてでも「寄席」に足を運んで欲しいものだ。前座さんから二つ目、そして色物の方々の妙技から、その身体感覚を含めて学ぶものがあまりにも多いのだ。さて、この日の馬治師匠の演目を楽しみに予想していたが、的中!!!名演の「景清」であった。盲いた人物が眼が見えるようになることを観音に祈願し、その母親との人情のやり取りを描く物語である。枕で「お差し障りのないよう」と断りの一言も配慮し、障害のある人物の真意を高座上に悉く再現する妙技であった。

「放送禁止用語」など世間は様々な「配慮」が過剰になり、むしろなかなか障害を持つ人々の真実が見えなくなってしまっているようにも思う。「文字」で記される書物やWeb上、「映像」が録画される番組やWeb動画と違って、「声の文化」である落語はその場にしか存在しない「声」で聞く側たる観客の想像によって理解する「文化」である。具体的な場面も登場人物の発言も、あくまで聞き手の解釈次第ということになる。僕自身が馬治師匠について1年半修行した際に、一番指摘されたことは「(教師である)先生は、落語を説明し過ぎる」ということであった。これは「人は説明には説得されない」という名言と同想のこと。落語に「主語」を補ったり、その場面が「どういう場所か」と「注」をつけてしまえば、聞き手の自由な想像を阻害することになる。「教師」というのは職業病的に、聞き手である児童生徒は「説明しないとわからない」という傲慢な思い込みの中で仕事をしている場合が多い。そしてまたこれは「短歌」も同じ、「説明の歌」を牧水は「そうですか歌」と言って揶揄している。

国語教育を有効にしようとした施策が
尽く文化や文学を歪めている
懇親会の席上でもそのような経験をお持ちの方と出逢ってまた勉強になった。


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