個々の声が生きる力に
2018-08-24
「斉読」否、個々の声でいいのだ「正しい読み方」否、すべて相対的なのだ
あらゆる多様なものを受け容れる意識を養いたい。
教員免許更新講習担当2日目。「音読・朗読の理論と実践ワークショップ【物語教材編】」と題した科目に60名の受講生が参加してくれた。大学での「講習」となると未だに旧態依然の「一斉講義」のイメージが払拭されない。更新講習の場合は、1日で80分×4コマ+認定試験という構成で朝9時から休憩・お昼休みを挟みつつ17時前まで要する。例えばこのすべての時間において、担当講師が一方的に喋ることを想像してみよう。それは担当者・受講者がお互いに、難行苦行であるのは自明である。もとよりリアルな対面講義であるのに、受講者のリアルな反応や学びを相互に顕にしないならば録画Web配信講義と変わらず、その意義も半減すると僕は思う。そこで僕は例年、こうしてワークショップ形式で講習を構成することにしている。理論を講じるのは朝1コマ目の80分のみである。2コマ目からは班別となって、1コマ目の理論を活かし教科書教材の群読創りに取り組んでもらう。
「群読」という創作にも誤解が多いが、何も「声を揃える」という方向性を強調する行為ではない。「学校」という空間が「教育」の場である以上、自ずと「みんなおなじ」が求められる。制服・上履はその服装としての象徴であり、朝礼の整列や体育座りなど、外見的身体的に「斉える」営為が溢れている。もちろん式典では「校歌斉唱」が通例であろう。さらにいえば、身体的硬直を強要し個々の感性はかき消されていき、表面的体裁上の指導者側の傲慢な自己満足たる「整えられた成果」が顕在化している。このように学習者を縛ることによって生み出されるのは、常に教育現場で問題とされることなのである。強制的に固めれば、見えないところでストレスが吐き出される。こうした「一斉」を超えた理念で「群読創り」に取り組むために、僕としてはいくつかの「掟破り」を用意している。その内容に関しては受講者の方々にだけ、そっと伝授しておくことにしよう。
「ひとりひとり」と言いつつ
それが再び失われていく逆行した社会
「生きる力」は標題ではなく「個々の声」を活かしてこそ宿るのだ。
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