身体性のない表現なんて
2018-08-08
文字を文字として読む実感のない空虚なことば
ことばの基底には人間の身体性あり
〈教室〉での「音読・朗読」に関する書籍を出版した際に、謹呈した多くの方々からご意見をいただいた。その際に「僕は黙読派です。」と主張する方がいて、今でもそれが気になっている。一つに「黙読派」と「音読派」という派閥に、しかも二項対立に分かれるものなのか?抑も、現代社会においては大勢が「黙読派」であって、「音読派」というのは”大人”では存在しないのではないか?という反動的な疑問も伴ってのことだ。かく言う僕自身も、「黙読」の効用は重視しており、こうして今、文章を書いたり推敲したりする際には「黙読」を活用している。だが「黙読」のみに偏ってしまい、「音読」のできない人がいると実感する体験もしたことがある。
それはある分野の専門の研究者の方が、提供された散文を「音読」してくださいと言われて行った際の、あまりにも「音読」にならない「音読」に愕然としたという経験である。当該の文章に関しては専門の散文であろうに、なぜこんなに悲惨な「音読」しかできないのか?とまた新たな疑問が僕の中に浮上した瞬間であった。「黙読派」と意識して偏るならまだしも、「音読」ができない身体性でもその分野の研究はしているという大きな発見であった訳である。「学校」という制度の中で、中学校・高等学校と進むにつれて、「音読」ができる身体性をむしろその「制度」が削いでしまうという現実がある。「文字」を「文字」でしか捉えない偏狭な思考こそ、崇高だというような大きな誤解。学生たちが創る身体性十分な表現を見ると、大きな安堵を覚えるのは僕だけであろうか。
動作化・表情・接触のある身体表現
声の高低・緩急・多様の使い分けを自覚する
身体性のない表現なんて・・・
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